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6月1日に生まれて。その3。再び絶望の淵に。

6月1日に生まれて。その3。再び絶望の淵に。

 

独立創業、事業をスタートして、立ち上がりは大変でした。

 

 

綿密な計画を立て、クライアントさんとの連携も密にして、活動していました。

 

 

しかし、

想定外の事象も起きました。

想定外の損害も発生しました。

 

 

しかし、この時も最小限の損害で済み、要所要所では、陰ながら助けて頂いた方も多くいらっしゃいました。

 

 

本当に感謝しても仕切れない思いでいっぱいです。

 

 

開業初期は、経験のない未知な事ばかりなので、何時も得体の知れない不安感に追いかけられ、何時もオドオドとしていました。

 

 

分かっていたつもりでも、知識と現実の違いや、やってみて初めて分かったことなど。

 

会社を経営するということは、やはり、大変なことなのだと実感したことは、いうまでもありません。

 

 

休みの日に自宅にいても不安感しかないので、急ぎ用も無いのに会社へ出勤している事も多々ありました。

 

 

 

そんな様々な障壁も一段落した後は、大変、ありがたいことに、仕事は思いの外、忙しくなっていきました。

 

 

思いがけないクライアントさんから、仕事の発注がきたり、不思議なくらい初期の1年半は、順調に仕事は稼働し、増えていたように思います。

 

リーマンショック、までは…。

 

 

 

そろそろ、個人事業主から会社を設立するべきかどうかと考え始めた頃でした。

 

 

2ヶ月に1度から3ヶ月に1度の定期検診に変わり、最初の直腸癌の手術からもうすぐ2年になろうかと言う時でした。

 

 

抗がん剤の服用も終わる頃かな、っと、考え始めた頃でした。

 

 

 

そんな、ある定期検診日の朝、レントゲンと採血を行なって、診察室前で順番を待っていました。

 

そして、順番が来て名前を呼ばれ診察室へ。

 

 

入室した瞬間、何時もと何か違う雰囲気が…。

 

 

主治医の先生が一瞬、私の顔を見て直ぐに立ち上がり、目の前のライトウォールに貼られたレントゲン写真をジッと見つめていました。

 

 

「何があったのだろう…。」

 

 

今まで入室前にレントゲン写真が貼ってあった事は無く、何か異様な雰囲気が漂っていました。

 

 

 

すると先生が…

「オペ、でき…そうですね……。」と静かに一言。

 

 

そして、「古野さん、ここ。」

 

伸縮式の指し棒を伸ばしながら、レントゲン写真の、向かって左側の下の方を指しました。

 

 

「ここ、影がありますでしょう。」

 

そこには、タンポポの種のような、綿状の白い影が写っていました。

 

 

え〜っ、何、何…。

 

 

次に先生の口から出た言葉は、

 

「恐らく、転移性肺癌ですね。」

 

 

が〜んっ。

 

一瞬、何が起きているのか

 

 

再び、呆然とし、2年前の瞬間が蘇ってきました。

 

そして、以前、聞いたあの言葉も頭の中を駆け巡っていました。

 

 

 

コンテンツ

「覚悟してください」の言葉が駆け巡る…遠隔転移、肺癌が発覚。

 

独立創業してあっという間に過ぎた1年を経過したばかりの頃、しかも、あるプロジェクトが佳境に入ってきた頃でした。

 

 

先生は座って、冷静に話し始めました。

 

呟くように、「2年くらいか…。右の肺の一番下に(肺の構造を説明しながら)、転移性肺癌らしき影があります。恐らく、手術は可能だと思います。」

 

「呼吸器外科を紹介しますので、この後、時間ありますか?CTを撮影したいと思います。」と、看護師さんには、CT室の予約状況を確認させていました。

しかし、その大学病院内のCT室は予約でいっぱいだったので、近隣の協力病院への撮影依頼をして予約されました。

 

合わせて、呼吸器外科の教授への診察予約も翌日に入れて頂き、その協力病院へ、造影のCT撮影に向かう事になりました。

 

 

 

2度目の癌宣告でしたので、以前よりは冷静な一面も持っていました。

 

心の中でも、「落ち着け!落ち着け!」の呟きを繰り返しながらも、

2年前、先生に言われた

「覚悟してくださいね」の言葉がフツフツと湧き上がってくる、

不安感にも追いかけられていました。

 

 

「もう終わりなのかなぁ…。事業は?…廃業?……」

 

 

様々な思いが駆け巡り、先生の質問に答えていました。

 

 

ふと、問診内容、私の回答をパソコンのキーボードに入力する先生の手が、ミスタッチを繰り返し、デリートも何回も繰り返している光景が目に入りました。

 

モニターにも、訳のわからない文字が並び、打ち直しを繰り返すその動作は、毅然と見えたその先生も動揺している…?

 

 

日本で二人しかいないと聞いた、多くの患者さんの希望を叶え続けているこの先生でも、「動揺しているのだ」と、ハッと我にかえりました。

 

初めてお会いした時と変わらなく見えた、この先生も動揺しているのだという事がわかり、先生も生身の人間なのだ、きっと救いきれなかった患者さんも沢山いたのだろうと。

 

 

落ち着け、落ち着けと自分に更に言い聞かせ、病室を後にしました。

 

 

 

それでも、沸き起こってくる不安の嵐に押し潰されそうになりながらも、その病院は、車で15分くらい離れた、介護施設内にある綺麗な佇まいの病院でした。

 

 

 

もっと、大きな専門病院のひとつかなぁって、思っていたのですが、真新しい大きめのクリニックの様な病院でした。

 

 

受付をすませると、先程から携帯電話に、プロジェクトの進行中のクライアントさんから、何度も、何度も、電話が掛かっていました。

 

こんな時に…、と思いながらも、

待合室で待っている時に…、マナーモードの携帯に再び電話が、

自分に言い聞かせる様に、落ち着け、落ち着けと

電話に出ました。

 

 

 

電話の主、その方も何かに、明らかに動揺していました。

 

 

話を聞いてみると、大した用事では無く、今直ぐに何かをする必要も無く、冷静にその旨説明すると、そのクライアントさんも落ち着かれた様でした。

 

 

プロジェクトの事が不安になるのは理解できますが、よく考えれば、そこまで慌てなくてもと分かるはずなのですが、当事者になるとわからなくなってしまうものですね。

 

傍目八目と言うのでしょうか、これも、よく、あるあるな…話しですね。

 

 

やっと名前が呼ばれ、診察室へ。

 

 

院長と言われる目の前の先生が、

「担当の先生たちが皆、出払っていて、今は私しか、居ないので、私が対応します。」と、簡単に、主治医の先生からの話と翌日の診察の事を確認してレントゲン室へと案内されました。

 

 

 

あなたには、聞きたくない!聞きたくな〜い!!

 

CT 室に案内され、撮影台に寝かされると、その院長先生が造影剤注入のための点滴ラインを取り始めました。

 

 

「少し、チックとしますね…っ」と、

 

その瞬間、痛い!!と感じている間に、え〜っ! 失敗している〜!!

 

結局、3回ほど失敗され、私も院長も冷や汗をかきながら、やっとの思いで、ラインが取れた様でした。

 

 

腕の良さと開業は別の物なのかなぁって、実感した瞬間でもありました。

 

 

 

撮影は、ライン取りとは打って変わって、本当に数十秒で終わりました。

 

 

当時、その病院のCT 撮影機械は最新式の機器だそうで、午前中にいた大学病院にも、まだ導入されていない機器だったそうです。

 

 

撮影、後処理をされている間、待合室でも他に色々と携帯に電話が掛かってきました。

 

何故、こういうタイミングに、色々な事が集中するのでしょうか。

 

結構、あるあるな、事…みたいですね。

 

 

 

テレビで見た様なCG画像が、目の前に……。

 

呆然としながらも、色々なことが走馬灯の様に頭の中を駆け巡る中、やっと、名前を呼ばれ、診察室へ。

 

 

院長先生の目に前にあるモニターには、テレビの医療特番でも見るかの様なカラーの肺の立体画像が既に映し出されていました。

 

 

まさかこれ、俺の肺?

 

現実感の無い画像に、院長先生が、

 

「どの様に、話を聞いていますか?」と

 

 

ただでさえ不安が募っていて、いっぱい、いっぱいの中、何度も点滴注射を失敗された先生に、余計な事は聞きたく無い、聞きたく無い、という思いが駆け巡る中、早く写真データと写真だけを受け取ってこの病院を出たいとの気持ちでいっぱいでした。

 

ただでさえ不安感でいっぱいな時、やっとの思いで平常心を保っていました。

 

信頼できない先生から、何かを言われると、緊張の糸が切れてしまいそうな、そんな予感で、平常心が保てなくなりそうで、心の中では耳を塞いでいました。

 

 

しかし、手短に質問に答えていましたが、説明が始まりました。

 

しかも、モニターに映るCGの様な立体画像を横に回転させたり、縦に回転させたり、その病院の設備を自慢しているかの様にも見えました。

 

 

しかし、初めて生で見たそのCT画像には、感心した事は正直なところです。

 

 

さっき大学病院で見たレントゲン画像は、3cmくらいの影が一つでしたが、その院長の説明では、その3cmくらいの影の側に、小さな数mm程度の影、院長は「炎症」があると説明されました。

 

 

それ以上、その場で冷静に説明を聞く心のゆとりが無くなっていくのを感じ、話の途中でしたが、院長には、明日、呼吸器外科の教授の診察がありますので、その先生に聞きますと言い、診察室を出ました。

 

 

じっと堪えていた気持ちが、切れてしまいそうな思いの中、受け取った写真データとフィルムを持って帰路につきました。

 

 

その夜、家内に詳しい事情を話し、翌日、同行してもらう事になり、寝むれない夜を過ごしました。

 

 

その夜、トイレに入った時、酔っていたせいもあるかもしれません、便座に座りながら、ついに気持ちが切れてしまったのか、嗚咽と涙が溢れて暫く、止まらない状況が続く夜となりました。

 

 

 

白髪の頭と口ひげ、優しそうな…学者さん?ザ・教授?

 

翌日、診察室に入ると、見るからに優しそうで、白髪の頭で、口ひげも白髪な如何にも、漫画にでも出てきそうな風貌の学者さんみたいな、教授という風貌を醸し出している方が呼吸器外科の教授でした。

 

呼吸器外科医としては、かなり著名な先生だった様です。

 

 

直腸癌の主治医の先生、下部消化器外科の教授も丁寧な説明でしたが、その呼吸器外科の教授も大変、丁寧でゆっくり、説明をしてくださいました。

 

 

余りにも丁寧過ぎて、かえって深刻なのかなぁ、って思ってしまうぐらい。

 

 

 

私の頭の中は、どれくらい入院しなければならないのだろう。

長期間になるのかなぁ。

それから、仕事はどうしなければと仕事のことで頭がいっぱいになっていきました。

 

廃業しなければならないのか、お世話になったクライアントさんに対しては、どう言う対処をしなければならないのだろうか、自分の身体も心配でしたが、万が一の時のために、何かしておかなければならないのか、などなど、そんな事ばかりが頭の中を巡っていました。

 

 

 

そんな思いの中、ゆっくり丁寧に説明を始めた先生に対して、

「家内はオペ室の看護師ですので、多少の医療用語を使われてもある程度は、理解できますので、気兼ねなく話してください。」と言うと、

 

 

「あっ、そ〜うですか。それならっ、と…。」

明るくテンポよく話の続きが始まりました。

 

 

非常に小気味よく、明るく、大丈夫ですよって言う雰囲気を醸し出していました。

 

 

3cmほどの転移性肺癌らしき影と側に、数mm程度の同様の影があるとのことでした。

 

 

「1週間ですかね…。」と先生が、

 

 

「手術して、1週間で退院できるのですか?」

 

 

「はい。」と。

 

 

 

丸まっていた背中が、すぅっと、背筋が伸びていきました。

 

「完全胸腔鏡手術で2つの腫瘍を部分切除します。」

 

「取り出した腫瘍を直ぐに検査して、術中に最終的な確定判断をします。」

 

 

「部分切除だけで済めば、手術時間は、2、3時間程度、もし、状況によっては肺葉の一番下、下葉を全摘する場合になった時は、もう少し掛かります。」とのことでした。

 

 

治療に関する説明は、非常に丁寧で簡潔で分かり易く、話しを聞いているうちに、気持ちが楽になっていく、

 

「俺、まだ生きられるのだ…。」

 

 

一通り説明が終わり、質問も終わり、最後に、

「ここで、ちょっと術前の検査をしますが、いいですか。」

 

「動脈採血します。」と。

 

 

え〜っ、親しい方の動脈採血するところを見たことが有り、怖そう、痛そうという印象がありました。

 

 

その時は、股関節に垂直に少し大きめの注射器を深いところまで刺して採血していました。

 

痛そうな、怖そうなイメージを持っていましたので、一瞬で冷や汗が出てくるのが分かりました。

 

 

「ベッドに横たわるのですか?」と聞くと。

 

 

「いやいや、腕から、手首から採りますよ。」

 

また、びっくり。

 

そっちの方が、痛そうで、難しそうな気がしましたが、

 

 

「はいっ、手を出してください」と机の上に置かれた採血用の腕用枕に腕を乗せると、看護師さんから受け取った注射器を私の手首を反るように曲げて、動脈血管の位置を確認すると、手首に垂直に針を刺しました。

 

 

目を背けたくなる光景でしたが、つい、見入ってしまいました。

 

 

「はい、終わりましたよ」と、あっと言うまでした。

 

 

痛くない、目に焼き付いた光景は痛そうでしたが、全く痛くありませんでした。

 

 

この瞬間に、この先生の技術の高さを垣間見た瞬間でした。

 

 

 

「本当に俺、まだ生きられるのだ…。」

 

 

不安が更に核心に変わった瞬間でもありました。

 

 

 

2007年、平成19年5月21日の手術を予約、

 

再び絶望の淵から、希望の光が見えた、そんな瞬間でした。

 

 

 

術式が同名でも、実際には微妙に違う手術方法。

 

当時の私の術式は、最終的には「胸腔鏡下手術による右肺下葉全摘出手術」でした。

 

右の脇の下に、数cmくらいの穴を3箇所開けて、その一つにカメラを、そして残りの2つ穴から手術用鉗子を夫々に入れて肺の下葉を全摘した手術です。

 

その特殊な鉗子は、腫瘍患部を周りの組織と一緒に切除すると同時にチタンのホッチキスが切除する側と残る肺側の両側に打ち込まれます。

切除する側と残る肺側の縫合が同時にできる特殊な鉗子なのです。

 

 

だから私の肺の中には、そのチタンのホッチキスが残っていますが、何の違和感もありません。

 

 

医学って、本当に凄いですね。改めて感心させられました。

 

 

そして、胸の肋骨の間も2cmくらい切除して、廃液や体液を排出するドレンパイプを入れる傷口と合計4つの傷口だけでした。

 

 

 

当時、「胸腔鏡下手術」と称される術式でも、他の病院では、脇の下3箇所の傷と胸の肋骨の間を10cmくらい切開し、開胸器で肋骨を開く術式の方が多かったそうです。

 

当然、肋骨は事実上の骨折をしている事になります。

 

 

同様の手術を3〜4箇所の傷口だけで手術できるのも、当時では全国でもこの大学病院を含めて、数件しか無かったそうです。

 

 

このような情報は、余り語られる事は無く、同じ名称の術式でも、病院によって、微妙に違う現実もあるそうです。

 

 

この術式が始まって、当時でも、まだ7、8年ほどとのことでした。

 

 

それ以前は、脇の下から胸の前の胸骨まで、L字型に大凡、30cm程切開し、肋骨を2本切除して腫瘍の切除手術をしたそうです。

 

 

 

私のケースでも、術後、結構な痛みは残りました。

 

痺れも伴う痛みで、半年程続いていました。

 

私の場合は、歩く時の縦の振動が結構傷口に響いて、歩くたびにジーン、ジーンと我慢できるような、でも、ちょっと、憂鬱になるような、痛みでした。

 

 

日にち薬とはよく言ったもので、月を跨ぐ内に、徐々に徐々にではありましたが、確実に痛みが引いていっている実感は感じていました。

 

 

たった数cmの傷が数カ所でもこんなに痛いのに、昔はどれだけ痛かったのだろう、考えただけで怖くなっていました。

 

 

やはり昔は、肺癌の手術は体力の消耗も激しく、呼吸筋も大きく切除しなければならなかったそうで、簡単には手術できなかったそうです。

 

 

先生からも、「7年前は、古野さんのケースは、手術できなかったのですよ」と言われた時は、何と言っていいのか、運が良くて本当に良かった、良かったと。

 

 

今も尚、進歩している医学の日進月歩に感謝、その言葉しかありません。

 

 

手術は、大きい方の腫瘍は直ぐ取れたそうなのですが、数mmの小さな腫瘍は中々取れず、結果的には、右肺の下葉を全摘することになったそうです。

 

 

何度か切除しては検査するが、小さ過ぎて確証が持てず、最終的には、先生の判断で取り残してはいけないと下葉を全摘したと術後に説明を受けました。

 

 

人間の肺は、右側が3つ、上から上葉、中葉、下葉、左側は2つ、上葉、下葉の合計5つに分かれています。

 

その内の一番、大きい右下葉を全摘した後は、正直、暫くは苦しかったです。

 

 

普通の速度で歩けない、年老いた老人?くらいの速度で歩くのが精一杯でした。

 

ちょっとでも早く歩こうとすると、直ぐに、「ゼェ〜、ゼェ〜」としていました。

 

それでも、術後病院内でも、退院後も極力歩きました。

 

 

すると、3ヶ月くらいした頃でしょうか、当時、間借りしていた会社のスタッフから、「あれっ、古野さん、普通に歩いているね!!」と。

 

言われてみると、普通に歩いている。

 

仕事のことで頭がいっぱいで、自分では気が付かないうちに、普通に歩いていました。

 

 

術後のレントゲンも数回見ましたが、見た目は余り大きさに変化は無い様に見えましたが、よくよくみると、右側の肺が、本来は少し下に大きく見えるのです。

しかし、左右同じぐらいの大きさに見えました。

 

 

機能としては、切除した後も、通常の生活には余り影響の無い程度には回復するそうです。

 

部分切除の場合は、体積自体もほぼ切除前に近いくらいにまで、戻るそうです。

 

 

 

1週間の休み、一人の事業主には…。

 

診察の翌日、間借りしていた会社に出勤した早々に、社長に入院中の事を相談することに。

 

すると、サラリーマン時代の上司、その方もリストラの末、別の事業で独立されていて、色々とお世話になっていた方です。

 

その方も駆けつけて頂け、入院中は、何かあれば、その方が代理で動いて頂けると言って頂け、安心して治療してこいと、言って頂けました。

 

 

その後は、クライアントさんにも、制作会社、プロダクションの皆にも正直に自分の状況を話しました。

 

 

皆さん心配してくれた事もありますが、皆、口を揃えて、「心配するな、気にせず、治療に専念してこい」っと、言って頂いた時には、目の前で涙が堪え切れなく、お恥ずかしい話し、目の前で思わず泣いてしまった事も多々ありました。

 

 

希望の光はあったとは言え、やはり、不安であった事には間違いなく、ちょっとした事で涙もろくなっていた自分もありました。

 

 

病気して大きく変わった事、無性に涙もろくなりました。

よく、歳をとると涙もろくなると言われますが、その度合いが、涙腺の弱さが年齢以上に弱くなった様な、気がします。

 

 

たまに、好きなゴルフ漫画、コミックを本屋で立ち読みしていても、所構わず、涙腺が緩んでしまいます。

 

映画やテレビドラマでも、最後まで泣きながら見ていることも増えました。

 

 

 

ずっと、一匹狼でやってきたつもりでしたが、孤独な時も多かったです。

この時程、一人じゃ無かった、自分の周りに本当に支えてくれた人たちがこんなにも居たのだと、感謝の気持ちしかありませんでした。

 

 

個人的にも仲良くして頂いた、クライアントさんの某担当者は、

「退院したら、翌週の土曜日にゴルフの予約入れておくから、絶対に行くぞ!!」って、マジですかと冗談だと思いながらも、嬉しさの余り、また、泣いてしまいました。

 

 

そうしたら、入院した日の午後に、その方から本当に、ゴルフ場のエントリー情報がメールされて来ました。

 

驚くと共に、「もし無理なら、キャンセルすれば良いから」っと、その暖かさに胸が詰まる思いで溢れていました。

 

 

 

退院の翌日に、出勤。驚きました。

 

手術の当日は、何と、歩いて手術室に、そして、名前と生年月日、手術内容を確認した後、手術台に自分で寝転びました。

 

その後は、テレビドラマでもよく見掛ける酸素マスクで、直ぐに意識喪失、手術がスタートしました。

 

因みに、そのマスクには純粋な酸素だけで、マスクを充てがわれると同時に、点滴に麻酔が注射されて、一瞬で意識を失うのです。

 

 

 

手術も無事終了、結果的には右肺下葉を全摘する事になりましたが、主治医の教授も頻繁に病室に顔を出して頂け、回復状況をよく見に来て頂けました。

 

 

退院近いある日、先生に、

「お客さんから来週の土曜日、ゴルフに誘われているのですが、まだ、行かない方がいいですよね…。」と言うと。

 

「痛いよ〜。でも、自分で行けそうと思ったらいいですよ!」

 

「え〜、マジですか〜。傷口が開らいたり、肺が破裂しませんか?」

 

 

「それは無い!!しっかり縫合してあるから」と、です。

 

 

驚きました、本当に先生が言っていた通り、術後7日で退院しました。

 

 

そして、間借りしていた会社へ、退院、翌日には出社。

 

術後8日目には会社へ出勤していました。

 

 

 

そして、そして、次の土曜日には、ゴルフに行っていました。

 

正直、息苦しかったのは事実です。

 

ゆっくりしか歩けなくても、ゼェ〜、ゼェ〜言いながらも、倒れることもなく、無事、ラウンドできました。

 

スコアもいつも通りの、よくある煩悩の数、108でした。(笑)

 

 

歩く時の縦の動きには、踵をついた時の振動に伴う痛みはありましたが、我慢できない程でもありませんでした。

 

しかし、何と言う事でしょう、スイングの横の動きには、全然、痛みは感じませんでした。

 

 

これ、本当の話です。

 

 

普通に歩ける幸せ、会社に出勤できる喜び、ゴルフができる幸せ。

 

ごく普通の日常生活が送れる事が、こんなにも幸せな事だったなんて、思いもしませんでした。

 

 

 

2007年9月10日、総合広告代理店、株式会社リップル設立。

 

退院後、直ぐに日常生活にも戻る事ができ、仕事も含めありふれた日常生活が戻ってきました。

 

 

しかし、あのリーマン・ショックが。

 

 

独立創業後、思いがけなくピークまで駆け上がった売り上げが、私クラスには余り大きな影響は出ないかもしれないと、思っていましたが、甘かったです。

 

 

ジリ、ジリっと、下がり始めた売り上げが、ある時、ドスンと落ち込みました。

 

 

個人事業主として、間借りの事務所では、また、自分の会社ではない環境では、経営という事には、限界がある事に気が付きました。

 

間借りしていた社長には、公私共に、大変、お世話になったのですが、事情を話し、そろそろ独り立ちする時期がきた事を話し、法人を設立して完全な独立をする事となりました。

 

 

リーマン・ショック、その後、

平成19年、2007年9月10日、総合広告代理店、株式会社リップルを設立する運びとなりました。

 

 

事務所も新たに探し、15坪程の東向きの小さなビルの4階の事務所を見つけ、中古の事務家具でしたが、自分も含め、5つの机と書棚、必要な家具を設置し、いよいよ、会社設立、本格的な事業のスタートです。

 

 

当初の目標は、出来る限り早い時期に、スタッフ4名を採用できる規模を目指そうと、目標を設定した事業のスタートでした。

 

 

リップルとは、「波紋」と言う意味です。

 

静かな水面に、1滴の水滴が落ちて広がる波の輪の事を言います。

また、さざ波のこともリップルと言います。

 

 

マスコミやニュースでは、悪い影響が広まる、影響する事に、この波紋と言う言葉がよく使かわれる事も多く、命名には迷いました。

 

 

しかし、私は元々、独立創業をするなんて事、思ってもいませんでした。

 

そんな実力や能力、頻繁にアイデアなども湧き出てくるわけでも無い、普通の人間でしたので、自分でも本当に、好きだけど、この仕事に向いているのだろうかと言う自問自答を繰り返しながらの仕事人生でした。

 

 

自分の存在価値は、何なのだろうか、自分がそこに存在する事で、何かが動き出す、何かに気が付く、小さな存在だけど、俯瞰してみると、自分の、その影響が広がっている存在になろうと思っていました。

 

 

そんな思いのイメージに近い、本来の意味に拘った、「ripple、リップル」と命名しました。

 

 

よく、人間は何らかの意味を持って、生かされていると言われます。

 

マスコミ等でよく聞くこの言葉に、正直、発信している人に対しては、違和感を感じる時もありますが、その真意には共感できます。

 

 

じゃあ、自分に何ができるのだろうと考えた時、答えも見つからないことも事実です。

 

 

しかし、小さな存在でも、その先には、大きな良き影響が提供出来る事は、何かを考え続ける事が、その使命なのかもしれないと感じています。

 

 

このブログを書いている今も、その答えを求め続けています。

 

 

自己の病気の経験を発信する事が、本当に良い事なのだろうか、きっと不快に感じる人もいると思います。

 

 

経験した事で、日常の生活で、ネットの検索でも分からない実感、実際の情報、たった一人の経験談でしかありませんが、きっと何かの誰かの役に立つかもしれない、運の良さを妬まれるかもしれない、バッシングされるかもしれないと感じながらも、やはり発信するべきではないかと感じています。

 

 

当時は、病気に罹患する前と、したした後では、当事者にとって本当に欲しい情報かどうか、分からない情報の方が多かった様な気がしていました。

 

やっぱり知らせなければ、発信しなければ、それも、私の社会貢献であるはずだと感じています。

 

 

 

抗がん剤、どうする?継続する?中止する?

 

退院してからの定期検診、下部消化器外科の主治医の教授と呼吸器外科の主治医の教授と検診を同日に受診することが定期的なルーティンとなりました。

 

 

取り敢えずは、3ヶ月に1度のペースで。

 

 

毎回の血液検査と、エコー検査と造影CT撮影を交互に検査する事になりました。

 

そして、抗がん剤を継続するかどうかの相談が下部消化器外科の教授からありました。

 

 

通常は、2年前後で終了するケースが殆どであると告げられましたが、転移性肺癌を経験した私にとっては、特に大きな副作用があるわけでなければ、継続してみることも一つの考え方ですと言われました。

 

 

しかし、結構、お金も掛かります。

 

 

3ヶ月毎に、薬代だけでも約5万円、実質15万円の費用が掛かっている事になります。

 

 

 

幸い、当時は、二人で働いており子供も居ませんでしたので、その出費が生活の痛手になることはありませんでしたが、もし、普通のサラリーマン家庭であったならば、どうだろうと考えさせられたのも実感です。

 

 

冷静に考えても、病気して、こんなにもお金が掛かるものなのか…と、実感しました。

 

 

 

ところで、抗がん剤の服用は継続する事にしました。

 

 

「もし、また再発しても、中止して後悔するよりも、継続して再発したほうが、諦めつくのじゃない〜」って、いう、あっけらかんとした家内の言葉で、

 

変な言い方でしたが、冗談か?とも思いましたが、何故か素直に、

 

「そうだよな…」って。

 

 

今の生活で特に無理をしなければならない状況でも無かったので、継続する事に決めました。

 

 

 

因みに、ちゃんとした生命保険、ガン保険にも入っていたので、大変、助かりました。

 

 

恐らく、最終的には、死亡と同等に近いくらいの保険金が出たのでは無いかと思います。

 

 

結局、この保険金の一部が、会社の資本金になりました。

 

でなければ、独立なんて出来なかったと思います。

 

 

 

まとめ

 

私が最初の直腸癌の手術をした時は、3人に1人が癌になると言われていました。

 

 

そして、最初の転移性肺癌、2度目の癌手術を経験する頃には、いつしか、2人に1人が癌になると言われ、最近まで来ています。

 

 

昨今では、著名人や芸能人の癌罹患や手遅れで、惜しくも若くしても亡くなられてしまう方や可哀想に感じてしまうくらい繰り返し罹患している方の話しも良く聞く様になりました。

 

 

癌治療に関する医療技術は日進月歩のごとく発展してきていますが、インターネットの発達もあり、その情報の入手も安易になりました。

 

しかし、その信憑性や真偽、善意や悪意のものまで、情報が氾濫しているのも実情です。

 

 

自分が癌宣告された当事者となった時、当時の私では、怖くて自分の病気のことを自らネットで調べようと言う勇気はありませんでした。

 

 

正直、私は小心者です。

 

 

15年前の頃は、癌宣告されたその瞬間から、呆然とした日々が続き、頭の中が空っぽになった様な、無気力な日々を、時間が流れるまま、放心状態で何も考えられないまま時間が流れていました。

 

 

癌と闘うと言う表現を特にマスコミ関係はよく使いますが、何か、本当に違和感を感じています。

 

 

実感の無い、心ない上辺だけの空虚な言葉に聞こえてしまうのは、私だけでしょうか。

 

 

決して闘うものでなく、何と言うのでしょうか、ある面受け入れて構えると言うのでしょうか、不思議な感覚を感じていました。

 

 

怖いけれど、自分を見ているもう1人の自分がいる様な、うまく伝わらないですね。

 

後になって、よく考えてみると、心の片隅の何処かに、何か予感のようなもの、薄々感じてくるもの、何がというか、よくわからない、少し冷静な自分もいたような気がしました。

 

 

 

私の場合は、本当に「運の良いことが重なっていった」、体のことも、仕事のことも、真摯に本当に運だけで、ここまでの人生を送れたことは事実の様に思います。

 

 

また、スピリチュアルな話になってしまいますが、若い頃から、特に仕事に関すること、パートナーに関することなど、友人たちと比較しても、満ち足りていない自分の現状を常に感じていました。

 

孤独感もありました。

 

「何で、俺は何をやっても、裏目、裏目になるのだろう…」と、踠いてばかりいる時代もありました。

 

ひょっとしたら、今も、踠いているのかもしれません。

 

 

 

しかし、こと身体的な事になると、大怪我しても、最も死んでいてもおかしくないような事故などの経験を小さい頃から多々ありましたが、その度に、入院することも無く、ましてや手術などもすることも無く、人生を過ごしてきました。

 

 

成人してから、日々ジレンマに悩んでいる時、占い師さんや、スピリチュアルな方や自称霊感師と言われる方からは、決まって言われること、

 

 

「あなたは、ご先祖様の業を全て背負っていますね。しかし、その反面、おなたを、守ってもいらっしゃいますね。」と、複数の方によく言われました。

 

 

不思議でした、時期も違い、相手も繋がりの無い方々から、同じことを言われるなんて、スピリチュアルな現象って、本当にあるのかなぁって、少し信じています。

 

 

 

ふとある時、特に、父方のご先祖様のことを聞く機会が増えてきたとき、あながち、当家のご先祖様は「業」を生んでしまう家業だったのかなぁって、納得してしまうこともあったのは事実です。

 

 

その業を私が受けてしまうのも、色々な情報から仕方ないのかなと、そういう事も、あるかもしれないのかなって、納得する自分もあります。

 

ご先祖様は、良きにつけ悪しきにつけ、破茶滅茶な方々も居ました。

 

 

 

私の苗字、「古野」は、よく「吉野」と間違われる事もあり、意外と、珍しい苗字です。

 

福岡県の北九州地区にある小さな地域に集中している場所があります。

どうも、当家もその辺りが発祥地であるようです。

 

 

しかし、珍しい苗字ではありますが、ある分野では、世界的に超有名な名前でもあります。

当家には、多分、関わりは無いと思いますが。(笑)

また機会があれば、お話ししますね。

 

 

その北九州地区の地元では、一族の中で、当時の時代としては色々な形で地域社会に貢献してきたご先祖様も何人か居ます。

 

 

しかし、その中でも、人の恨みや、妬みや僻みを買う事もあったのだろうと想像できることもありました。

 

 

 

親父を除き、祖父以前のご先祖様の皆さんは、殆どが、北九州地区で様々な事業に講じていた方が多かったようです。

 

 

これも大変、スピリチュアルな物語、映画のような出来事から、数年前に、ご先祖様に関する情報を更に、詳しく知る事になり、益々、何人から言われたその言葉を回想する事になります。

 

 

これも機会があれば、お話ししますね。

 

 

 

よく私が病気の話しをすると、ステージは?とか、何年になるの?と言う質問が帰って来ます。

 

 

ステージに関しては、私が大腸癌に罹患した時は、大腸癌は、初期癌と進行癌の二つしか識別されないと、当時は言われていました。

 

で、私は、進行癌になりますと言う事で、治療が始まりました。

 

現在でも、同じなのかは、わかりませんが、仕方のない事なのですが、一般的には、正確な情報が浸透していかない実情もあります。

 

間違った情報を押し付けられて、取り返しの付かない事態に陥ったり、自分の本来の意思とは違う選択をせざる負えなくなったりと、悔いの残る判断をしたのではないだろうかと、推測してしまう事に遭遇する事もありました。

 

 

あくまでも、情報の一つとして提供してくれるならば良いのですが、中には、間違った情報を押し付けてくる方もいるのかもしれません。

 

聞いた方も間違った情報を受け入れなくてはならない場合もあるかもしれません。

 

 

特に大病に関する情報は、その中身によっては、精神的なダメージに拍車を掛けてしまう可能性もあります。

 

 

癌患者に対する方への情報提供やお声掛けに関しては、発言の前に、一旦、自分だったらどう感じるだろう、と考えてからお声掛けして頂けたら、きっと、お気持ちは通じるのでは無いだろうかと思います。

 

 

医療は、日進月歩です。

 

何か伝えたい情報があれば、ご自身が知り得た情報をそのニュースソースを知り得た方法を教えてあげては如何でしょうか。

 

 

偏った情報で無く、自分が納得できる判断ができるような、情報を提供してあげたり、ただ、聞いてあげるだけでも、勇気や支えになるのでは無いかと感じます。

 

無理して、言葉を探す必要もないのではと思います。

 

 

結局は、巡り合った主治医の先生や医療チームとのご縁で、その後の結果に、差が出る可能性が高いのかもしれません。

 

 

私のケースは、正直、尊敬できない嫌な先生とも巡り会いましたし、この先生でダメなら諦めがつくかなと思わせてくれた先生にも巡り会うことができ、現在があります。

 

 

求め歩いた訳ではありません。

 

虫の知らせと時の運の流れで、今があります。

 

決して、罹患前と同じ生活ができている訳ではありません。

 

それなりのハンディも背負う事にもなっています。

 

これで済んだのだから、よしとしなければと考えています。

 

 

「治療後10年以上経ったから、大丈夫ですね。」ともよく言われます。

 

悪気無いとは重々、承知していますが。

余り嬉しく無い言葉でもあります。

 

冷静に、よくよく情報を整理してみると、15年くらい経過して再発している人もよく聞きます。

 

 

特に「運」だけできた私にとって、10年経ったから大丈夫とか、はしゃいだり、驕ったりしないように、どちらかと言うと自分を戒めるようにしています。

 

 

「幸運の女神にそっぽを向かれないように」、いつも真摯に、謙虚に、驕らず、はしゃがぬように、妬まぬように、言い聞かせています。

 

 

運を逃してしまわないように、注意していますが、いつも自分の振る舞いに、後で反省する事も多いのが実情ですが。

 

 

笑われるかもしれませんが、そう言う恐怖心もいまだにあることも実感です。

 

振り回されても行けないけど、深層心理の中にはそう言う感情が潜んでいます。

 

 

 

このブログに触れて頂いたご縁で、それなりの年齢の方は、是非、恐れず、がん検診を積極的に受けて欲しいと感じています。

 

 

今の医療は日進月歩です。

余程の時期に見つからない限り、簡単には死にません。

 

家族や周りに介護を背負わせる事になる可能性もあります。

 

そうならないためにも、万が一当事者になってしまったとしても、早期発見を目指すためにも、これもご縁と考えて頂き、積極的にがん検診を受診することをお勧めします。

 

 

会社等での通常の健康診断では、生活習慣病等の判定は可能ですが、仮に腫瘍マーカーなどの検査項目があっても、その時点で上がっているのならば、その進行は初期では無い可能性もあります。

 

 

 

そして、生命保険やがん保険、ちゃんとした保険に入っていますか。

 

 

がん治療は思いの外、お金が掛かります。

 

当時の私の場合でも、個室には入りましたが、自己負担が日額平均3万円ほど掛かりました。

 

昨今は、特に入院期間も短くなっています。

 

合計金額を日割りすると、もっと掛かる計算になるのではないでしょうか。

 

 

病気治療にはお金が掛かる。

 

こう言う現実もあることは否めません。

 

これもご縁と考え、ならば、それに備えることも、今一度考える切っ掛けになれば、嬉しく思います。

 

 

 

 

その4は、3度目の転移性肺癌を経験する事になります。

 

またしても、医療技術の発達を、身を以て経験する事になります。

 

 

 

その他の岐路も迎える事にもなります。

 

 

でも、頑張って生きています。

 

新たな誕生日となった、6月1日に思う事…。

 

 

 

 

2020.06

 

 

 

この記事を書いた人

古野 徹
株式会社リップル
代表取締役
マーケティング・コンサルタント

広告関連企業8社に従事して36年超。
ありとあらゆる業務を経験してきたノウハウを活かし、総合広告代理店、㈱リップルを設立する。

創業15周年の通過点に向けて、新規事業として、中小企業を対象とした、「マーケティングに関するコンサルティング事業」サービスの提供を開業。
「心を大切にコンサルティングします。」を新たな基本理念に加え、
どうやって、集客していくのか、
どうやって、売り上げを伸ばしていくのか、
どうやって、新たなお客さんやサプライヤーと繋がっていくのか、
どうやって、人財を確保していくのか、
どうやって、災害や緊急事態に対応していくのか、等々、
益々、社会での存在意義を示していくことが重要な課題になってきている中小企業に対して、わかっているようで、わかっていない「マーケティング」、今更、聞くに聞けない「マーケティング」の事など、総合的なマーケティング活動の施策支援のサービスが提供できるように、絶えず精進を続けている。

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