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6月1日に生まれて。最後の術後から10年。その1。

6月1日に生まれて。最後の術後から10年。その1。

 

どこかで、聞いたことのある映画のようなタイトルですが、実は私の誕生日です。

 

 

そして、57歳となる永和2年の6月1日の誕生日は、4度目の手術を受けて、満10年を迎えることができた、いつもとは少し違った思いの誕生日となりました。

しかも、コロナ禍、真っ只中の中で迎えたこの日は、更に、感慨深い思いと、得体の知れない不安感の同居する1日を過ごしたものです。

 

 

この10年間、6月1日の誕生日を迎える時は、毎年、感慨深い気持ちになります。

無事にまた、1年を積み重ねられたことに、お世話になっている方々、ご先祖様や神様、自分の運など思いつくもの全てに、感謝の気持ちを抱かずにはいられない気持ちになります。

 

 

私にとっては、単に誕生日と言うだけでなく、1年1年の月日が積み重ねられたと言う重みを感じています。

 

 

3度の癌を経験して、10年前のこの日に、4度目の手術を受けた私にとっては、特別な日となりました。

 

4編に渡ってお話しします。

 

 

 

コンテンツ

最初の大腸癌から約15年。今に感謝。

 

それは、2005年、平成17年の6月27日に、最初の直腸癌の手術を受けて、満15年を迎えました。

 

 

当時は、まだサラリーマンでしたが、会社では目に見えぬリストラにあっていました。

 

「このままでは、自分がダメになる。何とかしなければ…。」

 

総勢30数名くらいの広告会社でしたが、ある日突然、若い社員を育てるようにと言われ、役職も昇格されるわけでもなく、権限も与えられることもなく、具体的な主従関係の辞令も無く、子会社への出向移動の辞令が。

 

窓際族のようなポジションで、外部の協力会社やクライアント様との面談も制限され、ジワジワと迫り来る不安感でいっぱいになっていた頃でした。

 

 

やっぱり、退職して別の道を探そうと決断し、粛々と準備を進めていました。

 

 

出向移動、直前の平成17年の春頃までは、休日出勤も重なり日々忙しい日常が続いていましたが、突然の子会社への移動命令、前述した通りです。

 

 

引き継ぎを済ませ、久しぶりにゆっくりと過ごせるゴールデンウィークを迎えることもでき、GWを過ぎた直後にも代休を取ることができました。

 

 

幸い移動後暫くは、暇な時期を過ごすことになり、別の道への算段もゆっくり考え準備することもできました。

 

 

当時、私は後厄を迎えたばかりの42歳。

遅い結婚でしたが、中々子供に恵まれず不妊治療にも取り組んでいました。

 

 

色々と試みましたが、双方どちらにも異常は無いと診断されましたが妊娠することはなく、最終的に顕微授精の段階へ移行することを二人で決めました。

 

そのためには説明会に参加しなければならないとのことで、GW明けの某日に代休を取ることになりました。

 

 

説明会は、その代休をとった日の午後でした。

 

家内は看護師でしたので、午前中は仕事へ、私は、午前中は空いていたので、退職する前に、7、8年通院していなかった痔の検診へ、当時からもその傷病では有名な病院の初診を受けることにしました。

 

 

受付を済ませ、看護師さんとの問診があり状況を説明、最後に出た質問が、

「もし、悪性腫瘍が発見された場合、本人への告知を求めますか?家族のみへの告知としますか?」でした。

 

 

初めての質問でしたので、一瞬、困惑しましたが、まさか、そんな展開になるとは思いもせず、看護師さんとの少しの談笑も交えた後に、「どうせ、勘づくと思いますので、告知してください。」と、質問欄にレ点のチェックを入れてもらいました。

 

 

正直、当時は、毎朝エアロバイクを30分漕いでからシャワーを浴びて朝食、その後、出勤するという日課、不摂生な生活も改め、毎朝の目覚めも良く、人生でいたって一番?体調の良さを感じていました。

 

 

まさか、癌罹患の告知を受けるなんて、予想もしていませんでした。

 

 

 

診察の順番がきて、診察、触診後、先生の口から、いきなり出た言葉は、「古野さん、この後、時間取れますか?」でした。

 

 

「どうしてですかと?」返すと、

「今、診察したところ肛門の近くに腫瘍があります。午後から可能な精密検査をして、また、近日にも精密検査をしたいと思います。」とのことでした。

 

私が「悪性の可能性があるのですか?」と聞くと、

先ほどの看護師さんとの問診票に先生は目を通すと、

「その可能性が高いです。」との返事が。

 

 

一瞬、何が起きているのか分からず、暫くの沈黙の後で、「わかりました」と告げ、診察室を出ました。

そして、家内の職場に電話を入れ、家内を呼び出してもらい繋いでもらいました。

 

 

開口一番、「午後の予定をキャンセルしてくれないか。今、診察してもらったら肛門の近くに腫瘍があるので、午後から精密検査を勧められた。仕事、終わったら病院まで来てくれないか。」とだけ伝えました。

 

 

その後は、ただ、呆然と時間が流れるまま、放心状態のまま検査が行われ、そして、3日後に更にCTと大腸カメラを中心とした精密検査を受けました。

 

 

当時のCT撮影は、1cm毎に「息を吸って。楽にしてください。」の繰り返しで、首から骨盤までの間、かなり長い時間を要した初めてのCT撮影でした。

 

 

昨今は、同じ範囲を数秒で、しかももっと短い間隔で鮮明で高解像度な画像撮影が可能です。

 

 

様々な検査をしましたが、当時でさえ「とても痛かった〜」と言う検査はありませんでした。

 

大腸カメラにしても、注腸レントゲン撮影(大腸にバリウムを入れて撮影するレントゲン)にしても痛かったというのは、採血の注射を打つくらいの痛みしか感じませんでした。

 

 

未知の世界は怖さもあるかもしれませんが、ある程度の年齢の方は、是非、積極的に癌検診を受診してください。

 

 

 

平成17年5月20日、午後、直腸癌罹患の告知。

 

2005年5月20日。

当時、痔の治療で有名だった専門病院のカンファレンス室。

 

外来診察室の奥にあるその部屋は、午前の外来がすべて終わった少し暗めの廊下の奥に、その部屋はありました。

 

とても静かな印象を覚えています。

 

担当の先生と看護師さんによる、家内も同席してのカンファレンス。

 

先生から発せられた言葉は、開口一番、「直腸癌です。」

 

その瞬間、漫画ではありませんが本当に頭の中が「ガ〜ん…」っと、鳴り響いたのを覚えています。

 

その後もずっと放心状態のまま、聞こえる言葉は全て、右から左へ通り抜けていく様に、他人事のように聞いていたような気がします。

 

 

「幸い、現時点では、直ぐに生き死にに関わる状態ではありませが。人工肛門は覚悟してください。」と言われました。

 

また、「当院では癌治療はできませんので大学病院を紹介します。」と言われ、中部地区では著名な某有名私立大学病院の名前を言われました。

 

しかし、その大学名を聞いて、一瞬、不安な気持ちになったのを覚えています。

 

 

当時から20数年以上前の大学生時代に、その大学病院の近くにあるガソリンスタンドでアルバイトをしていた時がありました。

 

当時、その大学病院の学生がよくお客さんとして来ていた事もあり、僻み、妬みもあったかもしれません、来店時の素業に対して、あまり良い印象を持っていませんでした。

 

 

結果的には、その大学病院に関する正確な情報、評判を知らなかったのですが。

 

 

そんな事もあり、先生には、「他の大学病院も紹介してください。」とお願いし、近隣の国立大学病院も合わせて紹介してもらいました。

 

 

世に言う、「セカンドオピニオン」と言うやつです。

 

 

当時は、セカンドオピニオンは、まだ余り一般的ではなく、希望する人も少なかったように思います。

 

 

最近でこそ一般的になってきましたが、当時は、癌宣告を受けた時点でそんなこと考える心の余裕などない人も多かったのではないでしょうか。

 

 

ただ、あくまでも私の個人としての意見ですが、昨今のセカンドオピニオンよりは、当時の方がセカンドオピニオンは受け易かった様に思います。

 

 

当時のセカンドオピニオンは、大学病院同士ならあまり嫌な顔をされることもなく、検査データも素早く渡して頂け、何よりも費用が初診料の3千円ほどでした。

 

 

しかし、昨今では、セカンドオピニオンと言えば、数万円、3〜5万円ほど請求されます。

 

 

一般庶民にとっては、簡単に捻出できる金額ではありません。

テレビや新聞のニュースでは、セカンドオピニオンの障壁が低くなった様な報道がありますが、本当にそうでしょうか。

 

医者同士の面子の鍔迫り合いは少なくなったかもしれません。

 

しかし、費用面ではお金のある人は、多少の金額でしょうが、一般庶民とっては、気軽にセカンドオピニオンを受けることは叶いません。

 

 

ただでさえ放心状態であるときに、他の先生の病院の意見を聞いてみたいと思っても、たとえ命に関わる事であっても気軽にできることではありません。

 

医者不足もあって、中々、予約が取れない現実もありますが、金銭面でも、現実的には、かなりハードルが高くなっている様に思います。

 

 

医療界の本音と医療行政の本音が見え隠れしている様にしか感じられません。

 

あくまでも個人の見解です。

 

 

 

癌宣告を受けての帰り道、病院を出て駐車場へ。

 

「まさか…。何で俺が…。何か悪い事した?……。」

そんな堂々巡りで意味の無い言葉が頭の中を繰り返していました。

 

 

放心状態のまま二人無言のまま、駐車場へ歩いている時、看護師でもある家内から発せられた言葉は、

「手術したら大丈夫。って、先生、言ってたじゃない。」と、ぽそっと、明るく。

 

その瞬間、涙がボロボロ出て来たのを覚えています。

 

看護師の家内は、当時、オペ室(手術室)勤務であり、日頃から仕事の事も色々と聞いていました。(個人情報的な事は聞いていませんよ)

 

 

先生の態度によって、難しい状況なのか、期待値が高いのかなど、生死に対する不安感でいっぱいな時、何か少し、小さな光が見えた様な気がしました。

 

この時、本当に私は、救われた気持ちに溢れていたのは事実です。

 

子供には恵まれなかったけど、心から家内に感謝し、生きていけるこれからの人生、家内を大切にしなければ、っと、心底、思えたのも覚えています。

 

 

 

でも、自分では気が付かないくらい、想像以上にショックが大きかったみたいです、心ここに在らず状態でした。

 

 

何気に習慣のままに、車のロックを開け車に乗り帰路へ。

 

 

家内の「きゃーっ!」という悲鳴で、「はっと!!」気付くと大通りに出る信号が赤!

 

既に交差点の、ど真ん中に突っ込んでいました。

 

 

普段は車通りの多い幹線道、幸いにも、その瞬間、運よく1台の車も通過せず、事故を起こす事なく、通過できました。

 

 

 

言うまでも無く、こんな時は絶対、運転してはいけません。

家内に代わって貰うべきでした。

 

 

 

それから、数日後、2通の紹介状と検査データを引き取りに、再び病院へ、5月20日頃に国立大学病院に、その後、最初に勧められた私立大学病院の診察を受ける事になりました。

 

 

 

「こんな医者がいるんだ。」

 

それから、数日後、2通の紹介状と検査データを引き取りに、再び病院へ、5月20日頃に国立大学病院へ、その10日後に、最初に勧められた私立大学病院の診察を予約、受診する事になりました。

 

 

 

最初に国立大学病院の受診。

 

紹介された担当の先生とは、時間外での受診でしたので、既に周りの診察室には他の患者さんもおらず、数名の病院スタッフのみで、静かな雰囲気だったのを覚えています。

 

 

予約時間も既に過ぎていましたが、先生が前の用で遅れていますとの事でした。

 

 

結構、待たされて、やっと名前を呼ばれて診察室へ。

 

その先生は、全然、検査データも見ず、問診も触診もされなかったのですが、放心状態が続いていた私には、ただ、時間が流れていくだけに感じました、

 

 

その先生は、私が癌告知を受けた病院へも定期的に派遣されているとのことで、既にカルテや検査データは見ているとのことでした。

 

 

何を話されたのかは、ハッキリとは覚えていませんが、話しの内容は、終始、永久人工肛門造設の手術になるとの事でした。

 

なんと無く、嫌な雰囲気だったのは覚えています。

 

 

自宅からも近かったその国立大学病院は、入院中に家内が通うことも考えれば、この病院で治療すべきなのかな、でも、なんか不安が多いな、正直、嫌な気持ちで迷っていました。

 

 

しかし、ちゃんと説明してくれないその先生は、あまり質問されるのが嫌そうな雰囲気を醸し出していました。

 

 

人工肛門ってどんなものかも解らない、その後の生活状態も想像つかない、放心状態の患者に対して、何度、説明を求めても話をすり替えて、答えてくれず、しまいには「定期的に専門の外来があるから(自分で)調べて受診してください。」に終始していました。

 

 

ただ、「この症例で、人工肛門を造設しない術式があるならば、私が知りたいくらいだ。」としきりに言っていたのを今でも覚えています。

 

 

そして、不安感から何度も質問する私に対して、遮るように、

「3ヶ月以降の予定は立てないでください。」と最後に。

 

 

言葉をなくしてしまいました。

 

希望を持ってはいけないの、死刑宣告でもされたような。

 

そんな、不安と失望感で質問する気力さえ失ってしまったのも覚えています。

 

 

 

心の隅では、「この人には切って欲しくないなぁ。」

 

「ここで、治療しなければならないのかなぁ。」

 

 

再び落ち込んでしまいました。

 

地に足がついていないような。

 

 

だけど、この某国立大学病院の先生の名前は、覚えていません。

 

 

 

 

因みに、この病院はその後、いくつかの医療ミス等の不祥事が数件発覚し、全国的にも有名になった時期もありました。

 

身近で表に出なかった同様のこともありました。

 

 

その時の反省を活かして、患者本位の病院に生まれ変わってくれていることを切に願っています。

 

 

 

結局、最初に紹介された、私立大学病院で治療を受ける事に。(笑)

 

平成17年6月1日、実際に治療を受ける事にになった、私立大学病院の受診日です。

 

そう、私の42歳、後厄の誕生日です。

 

 

名前を呼ばれて診察室に入ると、白髪の多いスポーツ刈りでメガネを掛けた、優しいそうなお顔立ち、当時、下部消化器外科の教授であられた、担当の先生です。

 

 

「初診を受けた病院では、何と説明されましたか。」で始まった診察。

 

検査データとレントゲン、CT画像などを丁寧に観察した後、診察台へ寝てくださいと、患部の触診を済ませました。

 

 

「ん〜っ、五分五分ですね。」と。

 

私の目を見つめて、確信を持った表情で語られ始めました。

 

それから、丁寧にご自身でイラストを描きながら、患部の状態を丁寧に説明して頂き、術式の説明、肛門を残せるかどうかの確立を「五分五分ですね。手術中に判断します。」と結論づけられました。

 

 

当時、その大学病院では、直腸癌での肛門温存療法を開始して5年目に入った時期と仰っていました。

 

 

世界的にも直腸癌は、肛門から2センチに掛るかどうかで、肛門を温存するかどうかを判断するそうです。

 

現在でも同様だそうです。

 

しかし、私の場合は、1cmを切っていました。

 

更に検査が必要ですが、「五分五分ですね。」と。

 

 

幸い、横には広かったですが、縦に浅く、運が良かったみたいです。

 

 

ありとあらゆる説明と質問がなされ、私も家内も質問することも無くなっても、「何か聞きたいことはありませんか。」と何度も繰り返される頃には既に、診察時間は1時間を超えていました。

 

 

外では、再診の沢山の患者さんが待っているにも関わらず。

 

 

 

この時、「この先生に手術してもらって、もし、ダメだった時でも、諦めがつくのかな。」って、正直に思えました。

 

穏やかな、不思議な感覚でした。

 

 

 

先生の「最後に何かまだ聞きたいことはありませんか。」の後に、

家内が間髪を入れずに、

 

「私、オペ室の看護師なのですが、オペに立ち会わせていただいても良いでしょうか。」の問い、

 

すかさず何の躊躇いも無く先生が

 

「あっ!そうですか、構いませんよ〜。是非、立ち会ってください」と

ニコニコしながらも、絶妙な間合いでした。

 

 

その瞬間、「あっ、俺、まだ生きられるんだ。」

 

 

何か希望の光が見えたような。

 

 

家内とその教授は、少し話しも盛り上がっていましたが、「一応、看護師長に許可がもらえればと、いうことにしてください。」と言われましたが、当然、その許可は取らず、立ち合いもしませんでした。

 

 

この会話の“ 間 ”、この「間」と言うのは、人を希望に導いたり、不安を煽ったり、正負どちらへも転ぶものなのだと、つくづく感じました。

 

 

一度、帰って治療を受けるかどうか考えてくださいと言われましたが、その場で、

「こちらで治療をお願いします。」と、最初に紹介されたこの私立大学病院での治療を決めました。

 

42歳の誕生日に。

 

 

そして、私の最後の質問で「手術は誰が執刀するのですか。」との問いに、

 

主治医の教授は私の目をじっと見つめ、「古野さんのケースは、大変、難しい手術となります。この病院で執刀できるのは、私しかいませんので、私が執刀します。」と。

 

難しい手術と聞きながらも、細やかな希望感を持てたことへの感謝の気持ちでしっかりと聞いていたような気がします。

 

 

 

平成17年、2005年の6月27日、最初の直腸癌手術、仮設の人工肛門を造設した手術を受けました。

 

 

五分五分と言っていたのに、前日にマーキングにきた講師の先生は、肛門を温存する場合のみのマーキングしかせず、ここでも細やかですが、少し希望への思いが加算されたような気がしました。

 

 

当日の朝、7時30分前頃、ベッドに寝かされたまま、手術室へ。

 

リフトで手術台へ載せられてオペ室へ運ばれました。

入院も人生初めてでしたが、これも初めての経験です。

 

 

オペ室では麻酔科の先生達が、明るく話をして頂けました。

室内には心地良いヒーリング的な、当時、ヒットしていた音楽、確かエンヤ?だった〜かな、そんな音楽が流れていました。

 

 

正確な題名と歌手名が思い出せません。歳ですかね。(笑)

 

 

名前と生年月日を聞かれ、ドラマでよく見る、酸素マスクを口にあてがわれました。

 

「ゆっくりと、数を数えながら深呼吸をしてください。」と、

 

3つまでは覚えていましたが、すぐに眠ってしまいました。

 

 

 

医療は日進月歩です。

 

その後、3度の手術を受けましたが、オペ室へは、2度目は車椅子に乗って、3度目は歩いて、4度目は歩いて、しかも、手術台に乗るときに自分で服を脱ぎました。(笑)

 

 

 

(オペ終了後、麻酔を醒まされて)

 

何時間経ったのでしょうか、「古野さん!分かりますか?」

 

目が覚めると、ぼやけた視界に、助手の講師の先生と看護師さんらしき方がみえました。

 

「肛門残せたよ〜」って、先生が。

 

「ありがとうございます。ところで、今、何時ですか?」との問いに、

「8時回ったところだよ」って。

 

ゆうに12時間を越える手術になったとは。

 

 

「そんなに長い手術だったのだ。家内は、立ち会わなくてよかった。」って、思いながら、そのまま、再び寝てしまいました。

 

 

ただ、梅雨時の暑い時期でしたが、無性に凍える寒さだったのを覚えています。

夏なのに電気毛布まで掛けてもらいました。

 

 

生涯初の入院と手術。

家族や親戚には、癌での入院、亡くなった人もいないのに。

 

 

交通事故も含めて、何度も死んでもおかしくない事故も経験しましたが、これが初の入院と手術でした。

 

 

 

翌日の朝、当たり前のことができない情けなさ。

 

翌日、感じたことの無い倦怠感と起き上がることができない、情けなさ。

 

咳をすると腹部に痛みが。

やや左側の腹部を触ると分厚く重ねられたガーゼ、おヘソの右横あたりについていた小さなビニールらしき袋。

 

これが、「人工肛門」なんだ。

仮設だけど、数ヶ月のお付き合いが待っている。

 

術前数日前より絶食していたにも関わらず、既に何か少し溜まっていました。

 

後で先生に確認すると、腸壁も新陳代謝を常に繰り返していて、便や粘液、水分と共に排泄されるそうです。

 

 

直腸からS状結腸までの20cmくらいを切除して、肛門付近と繋いだ手術だったので、肛門と大腸が完全に縫合されるまでに数ヶ月の時間が掛かるそうです。

 

その期間、横行結腸の右側辺りを、おヘソの右横辺りに引っ張り出して仮設の人工肛門を造設して、便が肛門へ行かないようにするためだそうです。

 

 

翌日目が覚めて、まだ朦朧とした感覚と思うように動かない身体。

到底、一人では起き上がれませんでした。

 

 

硬膜外ブロックという背骨に直接、麻酔を撃っていましたが、それでも痛みの残る肛門。我慢できないほどではありませんでしたが。

 

 

朝の定例回診では、そんな酷な状態にも関わらず、「さっ、古野さん。ベッドの縁に座ってみましょうか。」と研修医の先生に支えられながら座らされました。

 

 

普段は、何の意識もせず当たり前のようにできていたことができない。

 

やっと、座れたとお思ったら、直ぐに「さっ、今度は、立ってみましょう!」。

 

「マジですか?」って言っている最中に、介添えされながら立たされました。

 

 

するとまた直ぐに「部屋の隅まで、ここまで歩いてみましょうか。」って、ほんの数メートルを歩きました。

 

 

本当に身体が重く、何と表現していいか解らない倦怠感の中、普段の生活で何の意識もしないで行動していることがこんなにも辛い状況に、普通の生活に戻れるのだろうかと不安でいっぱいになりました。

 

 

でも、数メートルを歩くことに必死で、不思議と痛みを感じていなかったのも覚えています。

 

 

私の場合、小腸大腸を腹部より全部出して手術をしていたそうで、術後早い時期から離床して、患部が少々痛くても、できる限り歩くことを勧められました。

 

少しずつで良いので、日に日に距離を伸ばしていくようにと言われました。

 

内臓が癒着しないように最初が肝心なのだそうです。

 

 

それからというもの、毎日、少しずつ、少しずつ距離を伸ばしていき、いつしか、1日に10kmくらい歩くようになっていました。

 

 

因みに、この最初の入院では、大凡、40日ほど入院していました。

 

 

歩き始めた頃、ふと、病室前の廊下の隅にテープが貼ってあるのに気が付きました。

 

 

よく見ると夫々のテープには、「5」とか「10」とか。

 

5m単位でテープが貼ってあり、片道約30mの廊下でした。

 

 

歩いている時は、「退院したら2度とここへは戻らないぞ。」って、つぶやいていました。

 

 

 

空腹感との戦い!大袈裟ですが。

 

それからとはいうものの、毎日、何も食べられず、空腹感との戦いでした。

 

当然、数日は引水も禁止、お茶とお水は飲めるようになりましたが、結果的に1ヶ月以上は、何も食べられずでした。

 

 

歩き始めると不思議に、身体は日に日に動けるようになっていくのを実感していきます。

 

 

 

術後最初に腹部のガーゼを交換する時が来ました。

 

それまで、やや左脇の腹部、おヘソの左脇を縦に、分厚く貼られたガーゼを、咳をする度に腹部に痛みが走るので、そのガーゼ部分が手術した跡と思って、しっかり抑えて咳をしていました。

 

 

すると何という事でしょう。

 

そこは、傷口ではなく、術後に腹部に溜まる腹水や粘液を輩出するための柔らかそうなビニールパイプが出ている場所でした。

 

 

ビックリ。

腹部術痕は、その横、ほぼ中央、おヘソの直ぐ横から股間中央の陰茎の付け根まで、半透明のテープが貼られたそこには、20数センチ程の傷がありました。

 

硬膜外ブロックが効いていたのでしょうか、傷口は、殆ど痛みはありませんでしたので、てっきり、そのガーゼの下が術痕とばかり思っていました。(笑)

 

 

正直、数日間は痛みに苦しむのかとも思っていましたので、医学の進歩には感心させられました。

 

 

点滴と飲料水だけの入院生活が、ほぼ、1ヶ月程続きました。

 

だけど、あるところまで行くと、痩せませんね〜っ。

 

退院までに10kgまでも痩せなかったですね。

 

勿論、点滴だけでしたけど。

この点滴、ずっと1箇所で済まないのです。

 

何日かすると詰まってしまう。

 

その時には、別の血管を探して新たなラインをとる。

 

これが、ある時、新米の研修医の先生がやった時…、痛かったです。

 

この時、5回くらい失敗されました。(笑)

しまいには、汗ダラダラで「すいません。先生呼んできますと。」

あなたも先生でしょ!!この先生には手術して欲しくな〜いっ!何て。

 

 

先生によっても、上手な人と下手な人、いるのです。

 

しかし、内視鏡手術の権威の先生は、上手でした。

 

しかも、難しい血管からライン取りして、一番、長持ちしました。

 

毎回、この先生にと願っていましたが、毎回違う先生が来て、思うようには行かないですね。(笑)

 

 

助けて頂いた御礼にと、教育への貢献と言い聞かせ、少しの痛みと不安に耐えていました。(笑)

 

 

とにかく、入院中は毎日、休み休みながら、廊下を散歩することが主な日課に。

 

頭に浮かぶのは、食べ物のことばかり。

あれが食べたい、これが食べたい、などなど。

 

 

仮設の人工肛門に貼られた袋の排泄物を観察しながら、食事の開始時期を観ているようでした。

 

 

それと、ストマ(人工肛門から排泄される袋のキット)の普段の処理と交換の訓練、自分の皮膚の強さを診ながら、袋を固定するアタッチメントの粘着力の強さを最終的に決めるのも入院中の課題のようでした。

 

 

 

退院の目処が。

 

術後1ヶ月くらいした頃でしょうか、ようやく、食事摂取の指示が出ました。

 

でも、固形の粒の無い、白色が付いただけの、素っ気無いお粥でした。

 

日毎に米粒の形が出てきたお粥から、普通の白米に変わる頃、退院の予定日が示されました。

 

 

ストマの処理と通常食が摂取出来る事が確認できたところでの退院でした。

 

 

この頃には、とにかくラーメンが食べたい、ハンバーグが食べたい、お寿司が食べたい、等々、病気の事を忘れて、食べ物の事で頭がいっぱいでした。

 

 

 

いよいよ退院、急遽決まったその当日は、家内は仕事が休めず、両親に迎えに来てもらうことになりました。

丁度、お昼時。

 

 

食事指導では、お酒も含めて制限は無く、繊維質の過剰摂取をしない事と飲食を過ぎ無いようにとだけ、言われました。

 

 

「何か気をつける事は、有りますか。」との問いにも、主治医の先生はいつも、「普通に過ごしてください。」だけでした。

 

 

患者としては、癌を予防するために気をつけることを知りたいと思っていますが、何度となく同じ質問を繰り返しても、

いつも、「普通に過ごしてください。」だけでした。

 

 

 

いきなり、やってしまいました。

 

退院の帰り道、無性にラーメンが食べたくて、食べたくて、両親と3人で実家近くのラーメン店に、久しぶりに食べたラーメンの美味しかった事、今でもはっきりと覚えています。

 

 

しかし、これがこの日の深夜、大変な事に。

 

 

久しぶりの我が家での深夜、一度、寝付いたと思ったのも束の間、腹部に激痛が始まりました。

 

 

じっとしていたら痛いばかりで、救急車を呼ぶべきか、病院に連絡するべきか迷いながら、家の中の廊下を右往左往して歩き続けました。

 

 

でも、何となく収まりそうな気配もあったので、暫く家中を歩き回っていました。

 

 

後でわかった事ですが、どうも、人工肛門を造設した場所で腸閉塞を起こしていたみたいです。

 

暫く歩いていたら、ふと、楽になり始めました。

 

閉塞していたものが流れ始めたようでした。

 

 

普段食べ慣れているものが、暫く絶食していた胃腸には刺激が強すぎたようです。

 

 

徐々に徐々に、が鉄則です。

 

でも、同じ失敗を繰り返してしまいました。(笑)

 

 

 

まとめ

 

初めての癌罹患、告知、入院、手術。

 

幼い頃から階段から何度も落ちたり、大小いろいろな事故にあったりと、また、学生時代には自転車で、車に跳ねられたり、バイクでの2度の正面衝突を経験しながらも怪我も無く、この病気で、初の入院、手術を経験する事になりました。

 

 

変な話ですが、占い師や霊感師などから必ず言われていた事が、

「あなたは、ご先祖様の業を全て引き受けていらっしゃいますね。でも、ご先祖様からは、大変、守られてもいますね。」と複数の方からよく言われていました。

 

 

スピリチュアルなことを信じられない方も多いかと思いますが、昔から不思議に感じていましたが、あながちそうなのかなぁ、って、思っていたのも確かです。

 

 

確かに私は、運が良い方だと思います。

 

これに限らず、振り返ると「俺って、運が良かったなぁ。」と思う事はたくさん有ります。

 

その反面、「何で、俺だけ。」と周りより満たされない人生なのかと感じたことも多いようにも感じます。

 

 

 

そもそも、病気の体験談を話した時、よく言われることが「早期だったの?」、「ステージは?」とよく質問されます。

 

 

私がこの治療を受けた当時言われたのは、「大腸癌は、初期癌と進行癌の2種類しか無く、古野さんの場合は、初期癌を超えているので進行癌になります。」と

言われました。

 

ステージ、云々の話はありませんでした。

 

 

 

タレントさんの癌罹患のニュースや特集番組など、全国放送を中心としたテレビ情報は、ある面、イメージ優先の情報に変換して情報発信をせざる負えない状況もあります。

 

個別な案件に対するエビデンスや正確な情報を発信する事は、時間的な枠の制約があり不可能な場合が多いです。

 

視聴者も捉え方の違う方々も多く存在します。

 

 

基本的にテレビの情報は、事実だけを報じているのでは無く、一種の意見を纏った事実を発信しています。

 

有益な情報である事は当然なのですが、視聴者を不快にさせる情報や混乱させる発信であってはいけないという見識もあります。

 

 

 

すると当事者にとっては、違和感のある情報が先行しがちな状況にもなります。

 

 

我々視聴者は、昨今よく言われるメディア・リテラシーと言われる情報の真意を見極める見識も持ち合わせて行かなければなりません。

 

特にインターネットの世界では、この自身のリテラシーを更に慎重に、そして、見極める能力を磨いていかなければなりません。

 

 

少し話がそれましたが、私がこの経験を通してお話し出来る事と言えば、先ずは、ある程度の年齢の方は、ガン検診を是非、受けて頂きたいと言う事です。

 

怖い、もし癌に罹っていたら、どうしよう、などと、気持ちは分かります。

 

私は、リストラにあい退職しようと思わなければ、恐らく、癌検診など受ける意識はなく、手遅れであっただろうと思っています。

 

 

7、8年振りに持病の検診に行ってみようなんて思いもしない程、人生で体調が一番良い時期でしたし、忙しさにかまけて、たまに排便時の少量の出血も痔かなって思うだけだったと思います。

 

 

あの時、何故か診察を受けてみようと思ったのは、今だから感じるのは、よく「虫の知らせ」という言葉を聞きますよね。

 

 

あの時、あの頃、多分、その「虫の知らせ」を感じたのだと思います。

 

無視してしまいそうなほどの予感かもしれません。

 

でも、今、病院に行くべきなのではと思う自分と、まさか自分に限って、大丈夫、大丈夫って、誤魔化そうとする自分もいました。

 

 

あくまでも私、個人の見解ですが、手遅れになって見つかった方もひょっとしたら、虫の知らせを感じていたのでは、と感じる時もあります。

 

あくまでも個人の意見です。

お気を悪くされる方がいましたらご容赦ください。

 

 

何が言いたいかと言うとこのブログを読む切っ掛けであったりとか、誰かと癌とか健康診断の話になったりとか、日常生活での色々な人とのご縁を通じて、微かにでもそんな思いを感じたならば、是非、迷わず癌検診も受けて欲しいと思います。

 

 

最近、思うことに、どんな方との出会いも、情報との出会いにも、何らかの意味、意義があるのかなって感じる事が多いです。

 

 

何かを感じさせるご縁が、得体の知れない予感が、ひょっとしたら「虫の知らせ」かも知れないと。

 

 

私があの時に一歩踏み出した気持ちは、本の些細な予感だったのかも知れません。

 

 

でも、あのタイミングがターニングポイントであったのは、今、このブログを書いている事がその証であったと思います。

 

 

その後、2度の転移性肺癌を経験した今でもこれを書いている事実が岐路を分けたのではないかと感じています。

 

 

最初に癌宣告をされた時、罹患して2〜3年以上は経過しているとも言われました。

 

 

幾度と感じた虫の知らせ、もっと早い時期の知らせに行動していれば、今よりもQOLは良かったのかも知れません。

 

 

ですから、このブログを通したご縁がある方や普段知り合う方には、お話しする機会があれば、私の経験を通して、伝えられる事が有るのならば、お伝えしたいと、それも自分の使命ではないかと思い、日々生活をしています。

 

 

家内からよく「病気自慢しているのじゃないわよ!」って、よく言われましたが、自慢をしているなんて、これっぽちも、思っていません。

 

 

この経験談で少しでも、検診を受けてくれる人がいるならば、と言う思いだけで話しています。

 

 

スピリチュアル的な話かも知れません、何か感じる事が有るのならば、何も無ければそれで良いでしょうし、もし、万が一、何かあるのであれば、早い段階でのことかも知れません。

 

 

でも「虫の知らせ」的に何かを感じる事は、きっと何かの意味や意義があるのではないでしょうか。

 

病気に関わらず、その直感を考えて見ること、検証してみること、行動してみることも大切なことのように思います。

 

 

 

そして、プライドとは、向き合う人に希望を与えるものだと言うことも感じました。

 

 

世間的に「プライド」とは、よく誤解した使い方をされているようなことが多いような気がします。

 

 

俗に言う「面子」をプライドと言っている事が多いのではないでしょうか。

 

 

私が受診した最初の国立病院の医師の話は、その医師の面子に拘っている話に終始していました。

 

 

その会話の中には、私は絶望の淵まで落とされ、希望の明かりを失った気持ちを持ったのは事実です。

 

しかし、実際に治療を受けた医師の核心に満ちた自信を醸し出す言葉は、私に勇気と希望を与えて頂けました。

 

 

仕事でも同じではないでしょうか。

 

プライドを持てる自分になること。

真摯に謙虚に、一切の面子を捨てる事。

 

日夜、その努力を忘れない事が、関係する人たちの役に立つ為に重要なことではないかと感じています。

 

 

難しいこととは、理解しています。

 

でも、そんな自分になれたらと、今も、努力していこうと言い聞かせています。

 

 

 

 

そんな思いを持って、退院しました。

 

 

しかし、退院後、ある日の検診で、

 

「転移したら覚悟してくださいね。」とボソッと、先生に言われた時がありました。

 

体調も良く、希望に溢れていた時でしたが、その言葉は、心の隅に仕舞い込んでしまいした。

 

 

 

(その2に続く)

 

 

 

 

2020.06

 

 

 

この記事を書いた人

古野 徹
株式会社リップル
代表取締役
マーケティング・コンサルタント

広告関連企業8社に従事して36年超。
ありとあらゆる業務を経験してきたノウハウを活かし、総合広告代理店、㈱リップルを設立する。

創業15周年の通過点に向けて、新規事業として、中小企業を対象とした、「マーケティングに関するコンサルティング事業」サービスの提供を開業。
「心を大切にコンサルティングします。」を新たな基本理念に加え、
どうやって、集客していくのか、
どうやって、売り上げを伸ばしていくのか、
どうやって、新たなお客さんやサプライヤーと繋がっていくのか、
どうやって、人財を確保していくのか、
どうやって、災害や緊急事態に対応していくのか、等々、
益々、社会での存在意義を示していくことが重要な課題になってきている中小企業に対して、わかっているようで、わかっていない「マーケティング」、今更、聞くに聞けない「マーケティング」の事など、総合的なマーケティング活動の施策支援のサービスが提供できるように、絶えず精進を続けている。

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