6月1日に生まれて。その2。独立に向けて。

40日あまりの入院を経て、暫くは自宅療養をしていました。
退院後、直ぐに検診があり、その後は、2ヶ月に1度の検診でした。
退院後の薬物療法は、飲む抗がん剤と腸閉塞を予防するための漢方薬を処方されただけです。
ここでも運の良さを経験します。
大腸癌の治療でよく飲まれる抗がん剤ですが、最初は多少の軽い吐き気を覚えましたが、強くて飲めない程ではありませんでした。
多少の不安感もありましたが、それほど副作用を感じる事もありませんでした。しかし、結果的には6年半程以上、服用することになりました。
通常は2年ほどで終了するのですが…。
中には副作用が強くて全然飲めない患者さんもいるとのことでした。
放射線療法の必要もなく、こう言う面でも運が良かったと思います。
数週間の自宅療養の後、退院後最初の検診の時でした。
その時には既に、会社へも復帰していました。
特に悪い状況も無く、2ヶ月に1度の検査と検診をしばらく続けることで決まりました。
そして、大腸癌は、肺と肝臓に転移する可能性もあるということで、胸部レントゲンとエコー検査を交互にしましょうという方針が告げられました。
この日、診察の終了間際に、主治医の先生から何気にボソッと、
「多分、大丈夫と思いますが、転移した時は覚悟してください。」と、静か〜に、ボソッと。
通常の伝達事項とは思いましたが、腹部に袋をぶら下げていること以外に、本当に癌の手術をしたのかと思うほど体調も良く、その時は、きっと大丈夫とあまり気にもとめずに帰りました。
その後もそんな事はないだろう…と、毎日を過ごしていました。
そんな言葉も忘れて。
コンテンツ
会社を辞める決心。誰一人、幹部の見舞い無し。
入院中、予想していなかった先輩の見舞いや取引先の方のお見舞い、予想もしていなかったクライアント様の役員さんのお見舞いに、どれだけ勇気づけられたか、そんな多くの方のお見舞いがありました。
ただ、よく叱っていた若い後輩たちの見舞いは無く、少々、寂しい思いもしましたが、何よりもショックだったのは、社長や役員が、誰一人の見舞いもありませんでした。
「やっぱり、リストラされていたのだ。」という感覚が核心に変わりました。
ここまで、見放されていたとは…。
俺が何をしたのだ…。
いつも会社の発展を願って一生懸命やってきたのに。
リストラの理由、大凡、察しはついていましたが…感情的な事だと思います。
会社とは、見放した社員に対してはこんなにも冷たいものか。
ドラマの様な明確ではない冷遇。
見えすえた人事異動。
このまま会社にいれば、ストレスと不安感で、折角拾った命なのに早死にしてしまうかもしれない。
寂しいながらも病気療養も兼ねて、転職は関係なく、とにかく頃合いをみて退職する決意を固めることになりました。
これまでに似た様な経験は多々ありましたが、この時が一番、精神的にこたえました。
生きるか死ぬかの病気になって入院、手術をしたのに、40日以上入院していたのに、お見舞いに来たのは、クライアント様の役員と担当者、厳しい仕事をお願いしていたにも関わらず、プロダクションや印刷会社などのアウトブレーンの皆さん、そして、友人や先輩達の関係者だけでした。
皆、本当に心配して、心遣いに溢れるお見舞いに、感謝感謝の気持ちで、いつも涙溢れてしまう程、嬉しかったのを覚えています。
しかし、その反面、沢山のお見舞いの方にお越し頂きましたが、会社の人間は、ごく一部、数名の先輩だけでした。
この時ほど、寂しい思いをした事はありませんでした。
普段、口では、面倒見の良さそうなことを言っていたのに、信頼しているぞ〜みたいなことも言っていた、社長や役員たちは、誰一人も見舞いには来ませんでした。
同僚や後輩も…。
やっぱり、接し方が悪かったのかなぁ…。
冷たいもんだなぁ〜。
でも、決心がついた、いい切っ掛けになりました。
やっぱり、辞めよう。でなきゃ、死んじゃうかも。
会社へ復帰。見た目は健常者。だけど…。
退院して職場に復帰。
日々、適度なお酒も飲め、タバコもやめて、健康的な食生活。
顔色も良く、周りからは、「本当にそんな大手術したの!」とよく言われる程、健康的に見えている様でした。
しかし、仮設とはいえ人工肛門を造設している身体、全てが今までと一緒とはいきません。
因みに、人工肛門とは、仮設の場合は、大腸の横行結腸の一部をおヘソの右側あたりに引っ張り出して、血管を残しながら輪切りにして、八の字を書いた様に腹部の皮膚に縫合して大腸の途中を腹部の外へ出して縫合し固定します。
例えば、ビニールのホースなどを、輪切りにして、切断してしまわない様に、一部を残して、二つに折ってみると、切り口が八の字を描いていますよね。
その切り口を腹部の外で八の字に縫合していると思って貰えば、わかりやすいですかね。
盲腸側から来た便は、そこに、両面テープで取り付けられたビニール袋の中へ排泄されるわけです。
自分の意思とは関係無く、そこの場所に来れば所構わず袋の中へ排泄されます。
ガス?オナラも出ますよ。所構わず。(笑)
定期的に、自分で溜まった頃合いを確認して、トイレで、袋の中の排泄物を捨てます。
このストマって言う袋、よくできています。
海外製が殆どでしたが、とにかく感心させられる程、よくできています。
オストメイト(人工肛門造設者のことをこう呼びます)とは、言われなければ分からないくらい、匂いも漏れず、よくできています。
そして、公共施設の身障者用トイレには、専用の便器もあるところが増えてきました。
便の行かないはずの肛門からも、定期的に粘液らしい排泄物も出ます。
これも自分ではコントロールできませんので、尿取りパット的なオムツも常時当てています。
排泄物が通過しない大腸からも腸壁の新陳代謝に伴う排泄物や粘液、水分なども吸収するだけでなく、排出もしているそうです。
身を以て感じました、人間の身体って凄いですね。
ですから、出勤する時やプライベートでの外出時でも自分なりに考えたストマの処理キットや変えのオムツ、トイレに流せるウェットティッシュ、携帯ウォシュレットなど、ショルダーバッグの中にコンパクトにポーチに詰めて、出勤や外出に備えていました。
携帯ウォシュレット、TOTOさんから出ているんですよ。
乾電池で動かせる電動式小型ウォシュレットが。
これも、よくできています。感心しました。
最初の数年間は、電動式のウォシュレットを携行していましたが、旅行グッズで、ペットボトルの先端に付けられるノズルが販売されているのを見つけて、今でも、そのノズルを小さなポーチに入れて常に携行しています。
外出時のエマージェンシーキットの様なものは、意外と市販されていません。
自分で、必要な、使えそうな汎用品を探して揃えました。
昨今は、どうなんでしょうね。
そんなハンディを持ちながらも、顔色も良く、外見は至って普通の格好をしているものですから、よく驚かれました。
当時もそうでしたが、現在も生活の中で、外出先でも、トイレに温水シャワー付きトイレが必需品なのです。
その理由は、後述しますが、同様の既往症を持つ方々は意外に多いと思います。
仕事柄、よく宴会のお誘いもありますが、宴会予定の飲食店、そのお店に、温水シャワー付きトイレの有無が、どうしても参加の判断の要素になってしまいます。
そんな小道具の数々を忍ばせたショルダーバッグを抱えて、通勤、就業していました。
幸い、なるべく無理しない様にと周りは気を遣って頂いたので、ありがたいことに、暫くは楽をさせて頂きました。
意外とメリットも多い、人工肛門。
人工肛門の造設と言われると、皆、絶望感に苛まれることもあると思います。
自分が、仮設ではありますが経験してみると、後から冷静に考えてみて、あながちデメリットばかりではない様に感じました。
あくまでも、私、個人の見解ですが。
仮設は前述の通りですが、永久人工肛門の場合は、直腸癌で造設した場合は、大体、切除した大腸の先を左の下腹部近くに造設されます。
八の字では無く、まん丸ですが。
その取り扱いや処理に慣れてしまうと、排便感は無くなりますし、寝る時にうつ伏せにならない様に気遣う点はありますが、慣れれば、通常の普段の生活ではあまり気になることも無くなります。
お風呂に入るのも、袋をつけたままでも外しても入れるので、個人的な生活面では、気になる事は殆どありません。
最初の頃には、たまに、袋を交換している時に突然、出てきてしまった事もありましたが。(笑)
入院中、術後1週間後に抜糸した後に、初めてシャワーを浴びた時のことです。
大腸の一部が腹部の表面に出ているのに、「湯船に浸かってもシャワーを浴びても大丈夫ですよ。」って、看護師さんに言われた時はビックリしました。
またまた、つくづく、人間の身体って意外と強いんだなぁって思いました。
ただ、ゴルフ場や温泉地などでの公衆浴場に入る時は、周りの人の事が気になりますし、周りの人も見たくないでしょうから、公衆浴場へは、自分は良くても、やはり入りづらくはなります。
しかし、永久人工肛門を長く経験をしていると、そんな心配も無くなる方も多い様です。
私は某ゴルフ場の会員なのですが、ある時の月例競技会の時、組み合わせメンバー4人の内、3人が大腸癌経験者になった時がありました。(笑)
2人に1人ではなくて、4人に3人ですよ。(笑)
一人は、私、仮設の人工肛門経験者、その時点では人工肛門を閉鎖して10年以上経過していました。
もう一人は、人工肛門の造設手術では無かった方、もうひと方は、永久人工肛門を造設された方々と入院経験の無い方とのラウンドでした。
変な盛り上がりもあって、楽しくラウンドさせて頂きましたが、その中で永久人工肛門を造設された方は、私よりも数年早い時期に直腸癌を経験され、当時はまだ肛門温存療法が少ない時期だった様で、人工肛門造設の選択しか無かったそうです。
でも、その方は本当に腹部に袋を下げているのか!?って、思うくらい、何の不自然さも無くプレーされていましたし、プレー後に一緒にお風呂にも入っていました。
ハーフターンの飲食も驚く程、普通の元気の良い健常者と変わらない様子でした。(普段、お酒も結構、飲んでいるそうです)
慣れてくると結構、排便のタイミングも予測できたり、ある程度コントロールできたりするそうです。
念の為、入浴前にトイレで袋を処理して、人口肛門を塞ぐ様に「パッチ」という丸い肌色の専用のシールを貼っていました。
マジマジと見るか、言われなければ、全くわかりません。
他のメンバーさんから聞いた話でも、同様のメンバーの方が他にもみえるらしく、実際に私もお目に掛かりましたが、普通にゴルフして、普通にお風呂に入っている方が他にもいらっしゃいました。
因みに、永久人工肛門の方は身体障害者の認定を受けられますが、仮設の場合は、障害者認定は受けられません。
やむおえず、そんな経験をしなければならなくなったとしても、精神的にも経験的にも多少の時間は掛かるかもしれません。
でも、そんなに悲観したものでもないのかもしれません。
個人の価値観にもよりますが、私の経験や周りの方々も見ていて、そんな感覚も持ちました。
可能ならば、そんな経験をしないで済むならばそれに越した事はありません。
でも、当時の状況でも3人に一人が癌になると言われていましたが、昨今では、2人に一人が癌になると言われています。
部位別に見ていくと年々その確率が上がっている部位や種類もあります。
ひょっとしたら、他人事では無くて、自分のことになる可能性も高い確率で訪れるかもしれません。
今の私でも、正直、怖いと思っているのも事実です。
ただ、自分の運が尽きぬ様に、社会のため、人のために、小さくても良いので徳を積む生き方に心掛けています。
因みに、先ほどの月例競技、入院経験の無い方を除き、大腸癌経験者3人は、その日、見事、入賞しました。(笑)
いよいよ、仮設の人工肛門、閉鎖へ。
退院後、3ヶ月経過後の検診で、仮設の人工肛門閉鎖が可能かどうか、近日に、その検査を実施することになりました。
肛門付近の縫合した患部がちゃんと引っ着いているかの確認です。
仮設の人工肛門、本?肛門側に通じる大腸からバリウム液、胃のレントゲンを撮る時に飲む同じ液体、バリウム液を注入して、レントゲンを撮る検査です。
検査予約は術後、丁度4ヶ月くらいでした。
当日朝、使い捨ての検査着に着替えてレントゲン室に、名前を呼ばれて、撮影台が色々な角度に動く撮影台に寄りかかる様に立ちました。
先にビニールパイプがついた注射器で、いよいよ、バリウムの注入です。
「先生のそれでは撮影していきます。」の声でバリウムを注入。
その瞬間です。
そのバリウム液が腸の中を流れって行くのがハッキリと分かりました。
そして、あっと言う間に肛門まで達したと思ったら、その瞬間、
肛門でその液が溜まるものと思っていましたが、
そのまま止まること無く、脚を伝って足元まで流れ落ちるのを感じました。
「えっ〜っ!!」
めちゃくちゃショックでした。
再び、訳の分からない放心状態に陥ってしまいました。
予想もしていなかった自体に、こんなことになるなんて思いもしていなかった事態に、何が起こっているのだろう、手術は失敗だったのだろうか、様々な思いが駆け巡っていました。
撮影終了後、撮影助手の方のお手伝いで、医療用ウエットティッシュで下半身を拭きましたが、とにかく、早くシャワーでも浴びたい、先生に聞きたいと動揺するばかりでした。
幸い、レントゲン撮影後に診察の予定になっていましたので、動揺感は数時間で済みましたが、待ち時間の間、頭の中では、「本当にまともな生活ができるのだろうか、どうなるのだろうか」の、堂々巡りを繰り返していました。
診察時そんな動揺を感じながらも主治医の先生は、レントゲン画像をにこやかに見ながら、「んっ、大丈夫そうだね。」と看護師さんに「オペ室の空き状況を確認して」と支持した後、私に「近いうちに(人工肛門)閉鎖できそうですね。順調ですよ」と。
先生に、さっき検査の時こんなことがあったのですが…と質問すると、
「暫く使ってないからね。緩んでいるだけです。これから少しずつ訓練、リハビリしましょう。」って、肛門を定期的に締めるリハビリしましょうと。
「くれぐれも、程々に、やり過ぎないように。少しでも痛みが出たらやめてください。」と。
それから、思い出した時には、リハビリを…。
結局、オペ室の空き状況により、術後からもう少しで6ヶ月が経とうかと言う頃の手術、平成17年11月8日のオペ日に決まりました。
驚きました!43回。人間の身体って凄いですね。
腹部に八の字に縫合されていた大腸を元の状態に縫合、筒状にして腹部内に収めるだけの簡単な手術でした。
以前、言われたように、術後、翌朝から廊下を歩いていました。先生の回診の前から。
術後着のままで尿管の管も抜いていないうちから、歩き始めていました。
看護師さんからは、普通の入院着に変わるまで、もう少し待ってくださいとは、言われましたけど。(笑)
その日の午後頃、麻酔が完全に解けて腸が動き出したかなって感じた瞬間、オナラが、そして、次に急な便意が!
術前とは違う感じ方でした。
食事もしていないのに、点滴だけなのに、ここでもビックリ!!
前回、お話ししたように腸が元気になろうと、新陳代謝を全開で開始したのかなぁ〜って、感じるように、激しく。
しかし、トイレまで持たない。
汚い話ですが毎度、毎度、オムツを汚してしまう羽目に。
何とその日は、中々眠れず、43回もトイレに行きました。
当然、43枚のオムツも換えました。(笑)
ご飯も食べていないのに。
シャワートイレの必要性をここでも感じることに。
43回は拭けません。
医療用に開発したのは、イナックス(現リクシル)さんが最初で、一般向けに商品化したのが、TOTOさんだそうですね。
日本の技術力に、こんなに、そして、今でも感謝したことはありませんでした。
その後も、食事が始まるまでの1週間、徐々に回数は減っていきましたが、それでも、1日、数十回はトイレに行っていました。
徐々に、トイレまで我慢できるようにもなり。
術前に戻って行くかのように…。
その日から、腸閉塞を起こしているかどうか分かるように、自分の排便記録を自分なりの基準を設けて記録するようになりました。
その後、2年半もの間、毎日。
これが、その病院での研究にも役立ったようです。
こんな記録つける人なんか、やっぱり、いなっかたらしいです。
また、やっちゃいました。予定2週間が40日越えに。
患部の抜糸まで1週間、食事訓練で1週間程度の予定での入院でした。
また、やってしまいました。(笑)
お粥から始まった食事。
段々と白米、通常食に変わって行く食事制限。
普通の食事がこんなにも美味しいものか、普段、何も考えずに当たり前のように食べている通常の食事、贅沢な外食ではない食事がこんなにも美味しいものなのだと、改めて感じさせられました。
ただ、やめたタバコの禁断症状も出なくなり、至って健康的な生活をしていた私には、病院の白米がやっぱり普段、家で食べているお米よりマズイなって感じていました。
先生からは、ゆっくりと少しずつ、よく噛んで食べてくださいと言われていたのですが、術後、大変、体調も良く、すぐにでも退院したいなと感じていました。
これがいけませんでした。油断していました。
身体は自分では感じていないぐらい、やっぱりダメージを受けていたのですね。
食事開始、三日目くらいでしたか、あまりの体調の良さだったので普通の速さで食べてしまいました、数回。
確か金曜日の夜くらいでしたか…。
土曜日の午後くらいから様子が変に、そう言えば、オナラが出ていないな…、何か胸焼けが、次第に食欲も無くなり、身体には倦怠感も。
食事は一時停止され、日曜日の午後くらいからは、吐き気が起こり始めました。
何かおかしい。どうしたのだろう。徐々に徐々に、体調が不良になって行く。
何となく、人工肛門があった場所に痛みも感じ始める。
救急で先生を呼ぶべきか、看護師さんも私自身も迷っている内に夜になり、月曜朝まで、様子を見ることになりました。
月曜の朝、一番にレントゲン撮影のオーダーが先生から届きました。
その時の病室は13階、入院中は毎度、降りるときは毎回、階段を利用していましたので、階段を使ってレントゲン室へ行き撮影。
毎朝9時頃に来る回診を待っている時でした。
突然、オナラが「ブッ!」と、すると再び便意が。
それから、体調が回復して行くのを感じていました。
9時頃先生が来て、「調子はどう?」と聞かれ、「レントゲン室から戻ったら、オナラが出て、それら調子が良くなって来ています。」と。
「良かったね〜。写真を見たら腸閉塞を起こしていたよ!!」って、抜けていなかったらそれなりの処置をしなければ行けなかったと。
看護師さんからは、「教科書に載せたいくらいの綺麗な腸閉塞のレントゲンでしたよ!」って、言われました。
大事には至りませんでしたが、油断はやっぱり大敵ですね。
前回の退院した夜の痛みと同じ、あの時はやっぱり腸閉塞を起こしていたのだ、夜中中、歩き回っていて抜けたのだなって、納得していました。
それからも、自分の排便記録をしっかり付け続けようと決めました。
14年以上経った今でも、排便記録はつけています。
その予兆を早く発見出来るように、当時ほど厳密ではありませんが、今もその記録をつけています。
それから、また、暫くの間、絶食が続き、1から食事の訓練が始まりました。
結果、前回と同じくらいの、大凡、40日間の入院生活でした。
食事もゆっくりと、よく噛んで、くどいくらい噛んで。
退院は、年末の師走も後半になろうかという、12月中旬でした。
そのまま、年末年始休暇へ。そして、決断。
退院後、会社へは挨拶程度に顔を数回出しただけで、そのまま、年末年始休暇へ入りました。
退院後、街中はクリスマスセールが盛況の季節、トイレに行く頻度が収まらず、突然の便意で中々、外出する気力が湧かない状況が続いていました。
退院後の初回検診は、今回は早かったです。
1週間ほど先に初回検診日が予約されました。
診察室で先生から、「調子は如何ですか?会社へ行っていますか?」
「まだ、出勤していません。中々、トイレに行く頻度が減らず、通勤途中、トイレに行きたくなったらどうしようと、不安で気力が湧かなくて…。」と。
「当て物(オムツ)してますよね。」
「はい」
しっかりと私の目を見て、
「だったら、会社へ出勤してください。」
静養していても、減りませんという事を言われました。
「普通に生活してください。」の真意も、ここにあるのかなぁっ、と思いました。
これもリハビリなのか!!
その日の午後から翌日まで、これからの自分なりのエマージェンシーキットを作ろうと、買い出しに出掛け、挨拶程度ですが、会社に数回、出勤しました。
会社以外にも、機会を見つけて外出する様にしていくと、どうでしょうか、その頻度は減っていきました。
何度か少しのお漏らしもしましたけど…。(笑)
15年経った今でも、オムツはしています。
ほんのたまに、どうしても間に合わない時もあるので、欠かせません。
大病したので仕方ない。車椅子に乗らなければならなくなったわけじゃ無いし、それ以外は、普通の生活ができているのだから。感謝しなければ。と、言い聞かせています。
病気以前と同じ訳があるはずが無い。
今の状況が自分にとっての普通の状況と考えなければ。
でも、よくよく冷静に観察してみると、かなり、以前の状況と変わらないところもあり、あながち悲観することも無い。と、感じています。
そんな生活の中、年末、そして、新しい年を迎えました。
年始、休み明け早々に、退職の意思を示そう。
溜まりに溜まった代休と有給休暇を消化できるキリのよい日程で、給与の締め日、2月15日付けで退職しようと、1月15日に退職願いを提出することを決意しました。
転職先も決めることなく、とにかく、このストレス地獄を解消したいと。
お陰様で、30代前半に痛風になった時、生命保険を全部見直し、当時流行った生命保険に入り直し、また、ガン保険、アフラックは22歳から20年以上、年額7,000円くらいの頃から定期的なヴァージョンアップしながら入っていましたので、相当頂戴しました。(笑)
多分、最近の死亡保険と同等程度の保険金額だったのではないかと思います。
入院も個室でしたが、十分過ぎるほど残ったお陰で、辞める決意が楽だったのは、間違いありません。
本当に、ちゃんとした保険に入っていた事、その大切さも、改めて感じました。
今、私の妹は保険の外交員をしていますが、私の経験も含めて、乳がんで亡くなった親友との経験もあって転身、日夜その経験を活かしているみたいです。
休暇が開け暫くした、1月15日、社長に退職願を提出しました。
「何でやっ!」とは、言われましたが、体調が優れないのでとだけ言いましたが、あまり、熱心には引き止められませんでした。
「これが本音、なんだな…。」、かえってスッキリしました。
何故か1月中は社外には口外しないようにとも言われましたが、親しいクライアント様関係には、こっそり、退院報告も合わせて挨拶して回っていました。
お見舞いにも来て頂いたクライアントの役員さんからは、
色々と親身に話して頂け、
「お前がいなくなったら仕事だす意味がなくなってしまうなぁ〜っ」とも
言って頂けた時は、本当に嬉しかったのは今でも覚えています。
「ん〜っ、どうするか〜?」
こんな話しが複数から。
「独立しましょうか?」
「そんな事できるの?」
「多分、大丈夫です。」
1月下旬には事実上の退職をし。
事務上の退職日を過ぎた、2月16日から、独立に向けた準備を急ピッチに開始。
3月1日に、個人事業主として事実上の独立創業することになりました。
最初は、個人事業主として、昔からお付き合いのあった広告代理店で机1つとメディアとの取引口座をお借りして、事実上の独立創業、本格的な事業がスタートしました。
予想以上の障害もありましたが、何とか潰れずに、ここまでやって来ることが出来ました。
本当に、運が良かったです。
詳しくは語りませんが、ここまでやって来ることが出来たのは、関係各者のお力添えのお陰、本当に運だけのものでしかありません。
これが創業時のエピソード1です。
まとめ
20歳代中頃までは、将来は独立して会社を作ると言う夢を持っていたのは事実です。
しかし、実際に大学を中退して広告業界に入りましたが、年を経る毎に、そう簡単には独立創業なんてできやしない、30歳を超える頃には、業界を転身しようか、この先、どうしようか迷いながら仕事をしていました。
大学も中退していましたし、中小零細企業ばかりで仕事をしていましたので、20代後半までは、極端に年収の低い、丁稚奉公の様な仕事ばかりしていました。
独立なんて無理、自分の甘さを痛感しながらも、広告業界が辞められず、サラリーマンでやって行くしかないと考え、会社の為に、自分が貢献できることを真剣に考えて、やっていました。
サラリーマン最後の会社では、私が入社以来、当時としては、珍しいくらいに急速に成長していました。
入社時は、20名程度だった社員が10年の在籍中に、他事業部も含めて、パートも含めて、40名くらいに一時はなっていました。
因みに、私の貢献ではありませんので、あしからず。
当時は、何か得体の知れない勢いがありました。
この会社に入って良かったな、もっと、頑張らなければと。
でも、予想もしなかったことって次々と起こるのですよね。
俗に言うリストラ。
えっ、自分が?まさか?
今までに無いくらいの不安感に襲われ、しまいにはストレスの極地に。
お酒の量も増えましたし、夫婦喧嘩も増えるし、最悪でした。
只、唯一、仕事の実務が忙しかった、私を支持してくれる方々を多く感じられた事が、救いだったと思います。
転職しよう。
会社を辞めようと思わなければ、病院に行く事もありませんでした。
会社の健康診断も人間ドック的なものは一切なく、きっと、手遅れで発見され、今、このブログを書く事もなかったでしょう。
決して、病気の経験が独立創業できた理由ではありません。
何故、自分の経験を発信しているのか。
病気になった時、関わる病院によって、医師、医療技術、経験、治療ノウハウも病院ごとに差があるのも現実です。
どうしても、共有できるまでに時間も掛かりますし、共有できたしても病院としては、多額のお金、設備も必要な事も現実です。
色々な誤解もあります。
間違った情報が蔓延している現実もあります。
悪意もあります。
幸い、私に関わって頂いた先生方には、本当に頭が下がります。
昼夜に関わらず、患者さんのために奔走している姿を目の当たりにすると、リスペクトなんて言う言葉では失礼だと感じています。
何時、休んでいるのだろう。
疲れた表情を一切見せる事もなく患者さんと取り組んでいらっしゃる姿に、今でも、感謝と尊敬の念を持っています。
入院中、後で知らされた話しなのですが、私の症例、ケースで、肛門温存療法を選択できる病院は、当時、日本では2つしか無いと。
もっと話を聞いてみると、当時、その手術をできる先生は、日本では2人しかいないと、別の先生から聞かされました。
特にコネクションがあったわけでも無いですし、たまたま、流れるままに受診した結果が、その先生が著名な方だっただけです。
本当に、自分の運に感謝、感謝しかありませんでした。
退院後、そんな話をすると、中には「いくらか包んだの?」っと、失礼で、無粋な話をされる方も何人かいました。
そんな事を要求される雰囲気も全くありませんでしたし、そんな事、考えたこともありませんでした。
ドラマの1シーンでは、そんな事をする人を見る事もありますが、当事者になって、本気に面と向かってそんな事を言われた時には、例え冗談でもショックでした。
その時は、冗談そうには見えませんでしたが。
拍子抜けして、返す言葉も失くすほど、失意に襲われます。
感謝と尊敬の念しか無い先生方に申し訳なくて、申し訳なくて。
生きているだけで丸儲け。
そんなことをおっしゃった方もいます。
正に、私も本当に、そう思う事、感じる事も多いです。
私は、運だけで、ここまで、過ごしてこられましたと、感謝の気持ちで、驕らず、自分は何をすべきなのかを常に考えるように注意しています。
「病気(癌)と闘う。」マスコミでは、よくこう言う表現使う事が多いです。
経験者としては、違和感の何者でしか感じません。
悪気は無いのでしょうが、知ったかぶりをして根拠の無い情報をひけらかす人、何か励まさなければと無理に言葉を発しようとする方、些細な言葉で、大病に罹患した人は傷付いてしまう事も多いです。
何気無しに発した言葉で、奈落の底に落ちてしまうような感覚に陥ってしまう事も多々あります。
でも、只、そばに居て聞いてくれるだけ、受け止めてもらえるだけでも、救われる事も多々あります。
大病に罹患した経験を発信する事は、きっと、誰かの役に立つのでは無いかと、自分が元気でいる事、そんな姿を見せる事も社会貢献では無いかと、自分と何時も自問自答しています。
でも、見方を変えれば、運だけで来た自分の運に見限られない様にと、徳を積む生き方をしなければ、と自分の事を考えている事も正直なところです。
当然、人それぞれですので、個々状況も違いますので、不快に思う方、否定的な方もいらっしゃると思います。
でも、いろんな人に救われた、偶然とは言え、運が良かったとは言え、多くの方々に支えて頂いていると言う実感があります。
だから、私は発信する事が、自分の役目なのでは無いかと感じています。
結果として、独立創業しましたが、10年近くは思うように身体が動かず、時には事務所に鍵を掛けて寝ている時も多々ありました。
大病前のように、普通に身体が動くようになったのも、ここ4、5年前くらいからです。
「運」に支えられた人生だから、その「運」に見放される事が無いよう、驕らず、謙虚に、真摯になることを自分に言い聞かせることを忘れないようにしています。
自分が生かされている理由は何なのか。
どう、社会に貢献して行くべきなのか、何時も考えさせられます。
そんな、思いも、もっと考えさせられるようになります。
しかし、再び、呆然とするばかり、挫折と放心状態を感じる事になります。
(その3に続く)
2020.06
この記事を書いた人

- 古野 徹
- 株式会社リップル
代表取締役
マーケティング・コンサルタント
広告関連企業8社に従事して36年超。
ありとあらゆる業務を経験してきたノウハウを活かし、総合広告代理店、㈱リップルを設立する。
創業15周年の通過点に向けて、新規事業として、中小企業を対象とした、「マーケティングに関するコンサルティング事業」サービスの提供を開業。
「心を大切にコンサルティングします。」を新たな基本理念に加え、
どうやって、集客していくのか、
どうやって、売り上げを伸ばしていくのか、
どうやって、新たなお客さんやサプライヤーと繋がっていくのか、
どうやって、人財を確保していくのか、
どうやって、災害や緊急事態に対応していくのか、等々、
益々、社会での存在意義を示していくことが重要な課題になってきている中小企業に対して、わかっているようで、わかっていない「マーケティング」、今更、聞くに聞けない「マーケティング」の事など、総合的なマーケティング活動の施策支援のサービスが提供できるように、絶えず精進を続けている。
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