学生スポーツクラブって、知っていますか。
今から凡そ、40年弱くらい前、関東地区や中部地区、関西地区を始め、各地に学生スポーツクラブと呼ばれる、大学を超えたスポーツエンジョイサークルなる団体が多くありました。
その実態は、旅行社に支援を受けて、事実上のサークル主催でのスキーツアーを企画したり、沖縄や与論島などへのツアーを企画したりして、女子大や女子高の校門前などで旅行パンフレットを配ってツアーを集客していました。
ツアーには添乗員として同行し、多くの女子大生や女子高生と知り合える事に過度な期待をして活動していたのも本心でした。(笑)
当時の先輩には、ツアーで大きな小遣いを稼いでいた方々も見えましたが、時にはパーティイベントなども主催したりして、1日に学生1,000人もの動員を果たした先輩たちもいました。
凄い時代でしたよね。
今、有料イベントで一千人もの若者を集めるは至難の技でしょうね。
そんな当時、私は留年を切っ掛けに名古屋では老舗のスポーツクラブサークルに参加することになりました。
そのサークルでは、なぜか広告営業の担当を任せられるようになり、スキーツアーのパンフレット表4、1ページの広告営業を担当したことが、広告業界に入る切っ掛けになりました。
コンテンツ
B5、カラー、1ページ、5,000部、広告掲載料50万円!!
当時は、元祖カフェバーが流行し始めた頃で、特に学生をターゲットにしたカフェバーが多数あった時代でした。
昼間はカフェとしてソフトドリンクやお洒落な軽食を南国ムード漂うお洒落な店内で、山下達郎氏や角松敏生氏、ホテルカリフォルニアなどのアメリカンミュージックが流れる中で、学生カップルがデートを重ねていたいい時代でしたね〜。
夜は一転、バーになり、また違った雰囲気が漂い、ロマンチックなスペースになっていました。
因みに、当時は彼女もおらず、一人でバイトとサークル活動に勤しんでいました。
そういうカフェバーを中心に営業していき、当時制作したツアーパンフレットの表4、カラー1ページの広告営業を一人で担当していました。
今思えば、B5、カラー1ページの広告の価値を知らなかったとは言え、複数社ではあるが、よく50万円もの金額で売れたなぁっと。
クライアントの皆様は、ただただ一生懸命だった私に支援してくれただけなんだと、後で理解したものでした。
「いいものできたね!!」の第一声。
広告出稿の契約後、原稿のデザインを綿密に打ち合わせし、素人なりではありましたが、知らないなりにも一生懸命デザイン提案をしていた記憶があります。
その後、パンフレットが完成し広告掲載誌を届けに行った時のクライアント様、そのカフェバーの店長さんの、見た瞬間の第一声が、
「いいものできたね!!」でした。
あの時の間と言うのでしょうか、胸の奥に突き刺さりましたね。
その瞬間に、「俺の商売これしか無い!」と思い、
大学を中退し、この世界に飛び込んでしまいました。
留年もしていたので、当時は広告代理店への就職を希望するサークル仲間も多かったので、仲間よりも先に社会に出て経験を積んで営業成績をあげれば、学歴なんか無くても高額所得者になれるって、本気で思い込んでいました。
お恥ずかしい話ですが、当時の私は世間知らずでもあり、直感で思ったら後先考えず行動してしまい、大学も中退してしまい両親にも本当に迷惑を掛けました。
甘かったですね(笑)。
一生懸命さと誠意と熱意があれば仕事はどんどん取れるって、真剣に思っていました。(笑)
超ブラック企業!?(笑)に就職。
当時のサークルの先輩たちが、ほぼ学生時代に起業した、小さな零細の広告代理店に就職。
定款上は広告代理店となっていましたが、その実、業務の殆どが販売促進関係の企画と制作請負が中心の仕事でした。
今考えたら、めちゃくちゃブラックな企業でしたね。
でも先輩上司や役員たちはとても優しくて、仕事が終わればいつも食事に連れってもらいよくご馳走になっていました。
だけど、当時大卒の初任給が年収250万円だった頃に、私の給料は税込み120万円、社会保険も厚生年金も無い、超ブラックでしたね。(笑)
生活なんか出来ませんよね、ここでも両親に迷惑を掛けてしまいました。
でも、血尿が出るまでの、約2年間、色々な経験をしました。
ドサ回りの小間使いのような仕事ばかりでしたが、苦しいながらも、何か懐かしく、いい経験をしたなって、正直、今でも感じています。
主な仕事は女子大生の人材派遣?
当時、私が担当していたのは女子大生のキャスティング。
他の先輩達はイベント制作やラジオ番組の制作など、それなりの仕事もやっていました。
私は、キャンペーンガールと言っては、某コーヒーメーカーさんや食品メーカーさんのデモンストレーター販売の派遣です。
いわゆる試食販売、試飲販売、マネキンってやつですね。
簡単に言ってしまうと、当時は、おば様たちが主役だったスーパーのマネキンさんに女子大生を派遣し管理すると言うのが主な仕事でした。
因みに、この時、強度の女性不信になったことも思い出の一つです。
毎週土日に合計5名〜20名くらいの女子大生をコンスタントに色々なスーパーさんに派遣して、到着したら事務所に連絡をもらって取り敢えず、ひと段落。
中々電話が来ないとお店の担当者に連絡、来ていないことが分かると、控えの女子大生を慌てて派遣する。
そのお店は、ギャラが貰えず、だけど控えの学生には割り増しでバイト代を支払わなければならない。
必ず1ヶ月に1〜2名は不思議と穴が開く。
責任感が強そうで、連絡無しでドタキャンなんてする訳無さそうな娘が穴をあける。
情けなかったですね。
本当、一時期は人間不信、女性不信になりました。
そんな中でも心の支えになる仕事もあったんですよね。
20代の前半。正直苦しかったです。
毎日が不信感に満ちた中で、それを押して、何もなかったように派遣する女子大生バイトを数百名の登録者名簿の中から探す。
携帯電話やスマホなど無い、音だけのポケベルの時代です。
夜、片っ端しに固定電話に電話して、丁重にご両親にお願いして繋いでもらう。
そんな毎日の繰り返しでした。
週末の本番は早朝から入店確認。
でも、そんな中でも自分に誇れる仕事も有りました。
1日に述べ100名の女子大生をキャスティング、マネジメントした仕事です。
テレビ・コマーシャルに出演してもらう女子大生モデルを探していると、大学別指定で、合計50名の女子大生のオーデションへキャスティングして欲しいと、大手の広告代理店からオファーをもらいました。
また同じ日に、名古屋港で初開催となる大イベントで某企業のパビリオンのコンパニオンのオーデションに50名キャスティングして欲しいとの大手のモデル事務所からもオファーも重なり、準備から新たなスカウトまで含めてほぼ全部を一人でこなしました。
正直言いますと、ちょっとだけ先輩にも手伝ってもらいましたが。
在職中、たった1日で2件の仕事でしたが、その後の仕事において、大きな心の糧になっていたのは間違いありません。
まとめ
嫌な仕事でもやり続けられた。
先輩や上司にも恵まれていたことが、今の私の血となり肉や骨となっています。
その後は、一般的な広告代理店に転職し、営業として、また違った経験を積むことになります。
若い頃は、中々仕事が取れず、給料も上がらず、毎日、何時ももがいていました。
もうこの業界から足を洗おう、もう辞めようと思っていると、もう少しやってみようかなって、それぞれの会社で糧になるような仕事が不思議と巡ってくるんですよね。
「運が良い」。
めげずに同じ仕事を、会社が変わっても続けられる。
やっぱり「運が良いんですね」。
36年を超えるそれらが、今の私を、会社を支えている経験、ノウハウになっています。
頼られると精一杯応えなければ、才能は無いけど、真摯に奢ることなく答えよう、物事の本質を見極め自分が、弊社が、クライアント様のために何ができるのかを考え続ける会社です。
あと何年、現場仕事ができるかわかりませんが、
実を言うと、今が一番、実務が楽しい。
広告が、マーケティングが楽しい。
そう感じています。
2020.09
この記事を書いた人
- 古野 徹
- 株式会社リップル
代表取締役
マーケティング・コンサルタント
広告関連企業8社に従事して36年超。
ありとあらゆる業務を経験してきたノウハウを活かし、総合広告代理店、㈱リップルを設立する。
創業15周年の通過点に向けて、新規事業として、中小企業を対象とした、「マーケティングに関するコンサルティング事業」サービスの提供を開業。
「心を大切にコンサルティングします。」を新たな基本理念に加え、
どうやって、集客していくのか、
どうやって、売り上げを伸ばしていくのか、
どうやって、新たなお客さんやサプライヤーと繋がっていくのか、
どうやって、人財を確保していくのか、
どうやって、災害や緊急事態に対応していくのか、等々、
益々、社会での存在意義を示していくことが重要な課題になってきている中小企業に対して、わかっているようで、わかっていない「マーケティング」、今更、聞くに聞けない「マーケティング」の事など、総合的なマーケティング活動の施策支援のサービスが提供できるように、絶えず精進を続けている。
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