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6月1日に生まれて。その4。3度の体験を経て。

6月1日に生まれて。その4。3度の体験を経て。

 

2度あることは3度ある。

 

よく言ったものだと、つくづく感じた次第です。

 

 

2度目の癌手術を経験して、3ヶ月に1度の検診が6ヶ月に一度になった頃でした。

 

 

ほぼ3年を経過しようかという時、今度は左肺の上葉に3cmくらいの影があると…。

 

場所的には、肩甲骨の裏辺りでした。

 

 

2度あることは3度あるとは、本当によく言ったものだと、ここまで、経験するなんて、情けない思いでいっぱいでした。

 

 

でも、検診の時の呼吸器外科の先生の表情が3度目の癌宣告をされた時、本当に救われた思いになりました。

 

 

CT画像、前回の手術以降は、3ヶ月に1度に造影 CT撮影とエコー検査を交互に繰り返していき、後に6ヶ月に1度の造影CT撮影だけになっていました。

 

CT画像を見ながら、

「古野さん、ここに影がありますでしょう。ん〜、今度は、術後4日かな…。」

 

言われた瞬間、ショックは、ショックでしたが、正直、現実感がないと言うのでしょうか、先生の態度から、安心感みたいのが漂っているというのか、この先生に巡り会えていて、本当に、良かったと実感したものでした。

 

 

慣れるというのか、表現は適切ではないと思いますが、3度目となるとある面、冷静さも持っていました。

 

 

その時は、私1人での受診でしたが、「これで最後にしてくれ!」と神様に祈る気持ちでいた自分もありました。

 

 

 

先生より、手術の予定日候補を提案された時、いくつかの候補日の中に、6月1日という日程が入っていました。

 

 

 

一瞬は、「誕生日に癌の手術なんか縁起でもない」とも思いましたが、逆に新たな誕生日にしたいという思いも湧いてきて、直ぐに、「6月1日でお願いします。」とお願いしていました。

 

 

帰宅後、その日は、晩ご飯に、結婚当初に住んでいた街の行きつけの寿司屋へ行こうと話し、当時、仲良くして頂いていた、その寿司屋のご夫婦の前で、検査結果を報告していました。

 

 

でも、何となく、3度目があるのではないかと予感していたかもしれません。

 

 

 

コンテンツ

不妊治療と共に、癌治療に取り組む。

 

最初の大腸癌治療が始まった時から、実は、同時に不妊治療にも取り組んでいました。

 

 

入院する10日ほど前でした。

 

家内と今後の不妊治療について話し合い、私の術後の治療がどういうものになるかは、術後にしかわからないと言われていました。

 

また、10人に1人は生殖機能がダメになるリスクもあると言われていました。

 

 

私自身もやはり、子供は欲しいと言う希望もありましたし、初めての癌宣告をされた時に、もし、子供が居たらもっと生きなければ、もっと強くならなければと思うだろうと感じていました。

 

 

その時は、本当に、毎日、毎日、不安感の嵐に押し潰されそうな日々を過ごしており、事あるごとに涙もろくなっていました。

 

こんなに自分が弱い人間なのかと、情けなく思いこともしばしありました。

 

 

もし、子供がいたら、こんな姿を見せちゃいけないと自分を鼓舞できたのかもしれません。

 

 

自分の命がこの先どうなるか分からない現実もあります。

 

万が一、家内1人に育児を、子育てを背負わせる事になってもいいのだろうかという思いもありましたが、何度も話し合いました。

 

 

そして、不妊治療を続けようと言う結論を出し、翌日、不妊治療で通っていた産婦人科へ相談の連絡を入れ、数日後の受診の予約を入れました。

 

 

産婦人科の先生に、術後のリスクと治療方針に、抗がん剤治療の可能性、放射線治療の可能性も想定しながら、自分の精子を入院前に冷凍保存すると言うアドバイス、提案を受け、迷う事なくその決断をしました。

 

 

その日から、入院までの1週間、1日おきに精子の冷凍保存のために、その産婦人科へ通う事になり、かなり多くの精子を保存することができました。

 

 

先生からは、「通常は、日ごとに数も減少していき、活動力も低下していくケースが多いのですが、毎回、その数もあまり減らず、元気もいいですね〜。」と、微笑みながら感心されました。(笑)

 

ベテランの女性の先生でしたけど。

 

 

 

しかし、心のどこかで、やっぱり、万が一のことも考えていました。

 

 

大学生時代の数々の写真の処分と当時、乗っていた車の処分を入院前にしておかなければいけないかなと…。

 

 

写真といっても大した写真ではないのですが、学生時代に、学生スポーツクラブという学生サークルが当時、流行っていた時代で、その活動の一環で、沖縄で旅行・ツアーの駐在員をしていました。

 

 

毎日、沖縄の空港や港に、お客さんを送り迎えして、その都度、お客さんたちと一緒に写真を撮ったのが、沢山残っていました。

 

別に、その中の誰とも付き合ったことも無く、写真だけでしたが沢山ありましたので、捨てておいたほうがいいかなって、何となく思いましたので…。

 

当時、よくマンションのベランダで、七輪で焼肉をすることが多く、炭の消壺を持っていたので、その消壺で全て焼いてしまいました。

 

 

 

もう一つは、当時、車を2シーターのオープンスポーツカーに買い替えたばかりで、ちょっと変わった車なので、売却に面倒を掛けてもいけないと、即座に売却をして、万が一の時のために、色々と身の回りを整理していました。

 

 

入院前の10日ほどは休みもとっていましたので、何かしら、忙しかったことも覚えています。

 

 

 

不妊治療とも向き合うが、結局、断念。

 

2度目の癌、3度目の手術から、平穏な生活が再び始まりました。

 

 

不妊治療においても顕微授精までの治療にも取り組んでいました。

 

 

貴重な体験もしました。

 

 

 

疑わしきも含めて、数回の妊娠はありましたが、結局は、2ヶ月に満たない内に成長が止まってしまったり、流産したりしました。

 

 

2ヶ月未満での流産や成長が止まってしまうのは、染色体に異常があるか、障害を持っている可能性があるそうです。

 

 

結局は、取り組みを開始して足掛け4年ほどを経過した頃に、最後の胚移植を実施、結論を待ちましたが結局は、明確な妊娠は確認できず。

 

 

これを機に、相談の結果、子供を作ることは諦めることになりました。

 

そして、保存していた私の精子も廃棄してもらう手続きをして長年の治療に終止符を打ちました。

 

 

 

検査の結果でも、精子、卵子共に、どちらにも異常は認められないとのことでしたが、結果的には、子供を持つことを諦める結果になりました。

 

 

昨今は、不妊治療への取り組みも早い方が良いとの意見も多くあります。

 

 

 

家内もかなり傷心していた様ですが、当時の住居の近隣で、偶然、冷やかしで入った新築マンションのモデルルーム。

 

 

たまたま、応対して頂いた責任者の方とのご縁が発覚、気分転換も兼ねて、即日、その日の内に残っていた最後の1邸を即断、即決して、そのマンションを購入しました。

 

 

その後、入居までの間に、ふと頭の中を過ぎったこと、

まさか、また転移しなよな…って、まさか…、大丈夫、大丈夫と、

頭の中を過ぎったのは本当の話しです。

 

 

よく、住宅などの大きな買い物をした時、家族に災難が降りかかるとか、何とはなしに聞いた記憶がありました…ので、まさかな…って、一瞬、思いました。

 

 

 

マンション引き渡し後、入居までに少しトラブルもありましたが、逆にこのトラブルが功を奏して、結果的には我々夫婦にはメリットに変わったこともありました。

これからの人生、二人で仲良く過ごしていこうと願ったはずでした………。

 

 

しかし、ここからが、二人の別れの始まりだったのかもしれません。

 

 

平成21年、2009年の7月に無事入居を済ませ、新しい生活が始まりました。

 

 

 

平成22年6月1日。3度目の癌、左の転移性肺癌で4度目の手術。

 

まさか3度目。

 

頭を過ぎったことが、再び現実に…。

 

 

最初の大腸癌の手術から5年を越えようとする頃、3度目の癌で、4度目の手術を受けることになりました。

 

 

私の47歳の誕生日に。

 

その日は、午前の予定でしたが、前日に急遽、急ぎの手術が入ったとのことで、午後に変更になりました。

 

 

病室で待っていると、「オペ室より呼び出しが来ましたので、今からお願いします。」と、看護師さんが呼びに来ました。

 

 

4度目は、オペ室まで歩いて、しかも、術後に使用する胸部の廃液を吸引する機械も同行した看護師さんがオペ室まで運んでくれました。

 

 

何か、手術に行くのでは無く、何処かへ散歩にでも行くような雰囲気でした。

 

 

入り口で、オペ室の看護師さんに引き継がれ、オペ室へも歩いて。

 

ここまでは、先回と同じです。

 

 

オペ室に入ると、主治医の教授が1人で待っていました。

 

 

名前と生年月日、術式の確認を受けて、ふと、見慣れない機会が並んでいたので、先生に質問すると、先生は、ニコニコしながら夫々の機械を簡単に説明してくれました。

 

 

「3年前には、これらの機械はなかったですよね?」と、聞くと、

 

「そうだね〜。年々、新しい機器が出てくるね!」と。

 

 

本当に、予想を超える速さでも、医療が進歩している一面を垣間見た瞬間でした。

 

 

身体の負担をできる限り下げるために、早く退院し、社会復帰が可能なようにと。

 

 

だから術後4日で退院と言われた裏付けが、ここにもあった気がします。

 

 

手術台へは、自分で着ているパジャマを脱いで、パンツ姿で、自分で、オペ台に上がりました。

 

パンツは、麻酔科の先生たちが脱がしたみたいですが。(笑)

 

 

手術は、数時間と今までで一番、本当に早かったです。

 

 

その日の夜は、初めての経験でしたが、念のためにということで、ICUに入りました。

 

 

翌朝は、これまた初体験。

 

男性の看護師さんに面倒見てもらう事に。

 

 

ちょっと恥ずかしかったですが、時間毎に体調も回復していくことを実感していました。

 

 

回診に来た、助手の先生からは、拳くらいの大きさを切除したとのことでしたが、息苦しいことも無く、何と(驚)朝食も食べました。普通に。

 

 

午後には、自分の病室に戻れるという事で戻りましたが、胸回りはやっぱり、3年前と同様の痛みと多少の倦怠感はありました。

 

しかし、直ぐにでも離床して自分でトイレに行くので、尿道に入っている管を抜いてくださいとお願いし、看護師さんから「本当に大丈夫ですか」と何度も確認されましたが、先生に許可を貰って抜いてもらいました。

 

 

 

4度の手術をしましたが、私の場合、毎回、一番、結構、辛かったのは、この尿道に入っている管ですね。

 

 

痛くはないのですが、オシッコが溜まってくると、管に何かが当たると膀胱まで響くのです。

 

 

 

本当に、肺癌の手術をしたのか?と思うほど回復が早く、本当に術後4日の6月5日の午後に退院しました。

 

 

そして、翌日には会社へ出勤。

 

今回は、あまり周りの人やクライアントさんには、入院の話をせず、当日は、出張で電話に出られないことが多いとだけ言っておき、ごく親しい人にしか話していませんでした。

 

翌日からは、枕元に会社の電話を転送する携帯電話を置いて、入院生活をしていました。

 

 

でも、流石に、退院、翌日から出勤して数日間は、咳をした時には、ちょっとですが、血痰も出ていました。

 

 

それでも、今回も前回と同様に、同じクライアントさんの担当者と、退院後1週間でゴルフに行きました。(笑)

 

 

 

こうして、私にとって新たな誕生日が増えました。

 

これで、最後にして欲しい。これで、最後にして欲しい。

 

との思いを込めて、退院した事は言うまでもありません。

 

 

毎日、10kmを越えた廊下での散歩の時も、毎回、

「これで最後にして欲しい。これで最後にして欲しい。」と

念じながら散歩していました。

 

 

そして、自分にとって、年を経るとともに、貴重な感慨深い日となりました。

 

 

また一年、また一年と無事年を重ねられたと、感謝を感じずにはおられない、大切な1日となりました。

 

 

やはり、今でも怖いのです。

 

だから、この日を迎える度に、また1年積み重ねられた、良かったと、感謝しています。今でも…。

 

 

 

親族が乳がんに罹患。

 

4度目の手術を終えて、4年が経とうかと行く時でした。

 

退院後は、3ヶ月に1度の検診から、6ヶ月に1度の検診になり、しかも、退院後、凡そ1年半後に服用していて抗がん剤も服用を終了することになりました。

 

 

結果的には、足掛け6年半の間、抗がん剤を服用することになっていました。

 

 

6ヶ月に1度の定期検診を繰り返す以外は、平凡な日々が続いていました。

 

 

 

そんな時でした、ある日、私の親戚で、乳がんに罹患したとの知らせを受けます。

 

 

そもそも、夜中に腹痛で緊急搬送されたのですが、CTの撮影で痛みの原因は、婦人科系の病気に罹患したことが原因であることはわかったのですが、そのCTでは、副腎に腫瘍があると言われたそうです。

 

 

当時の副腎腫瘍が悪性、癌である罹患率は、200万人に4〜5人と言われる程、少ない罹患率だそうで、ホルモン系の病気か、若しくは、良性の腫瘍か悪性の腫瘍、癌であるかは、最終的には手術で摘出しなければ分からないとのことでした。

 

本人は、40代後半で、なるべくなら手術はしたく無いらしく、悩んでいたそうです。

 

 

 

その後、様々な検査をしてみると、ホルモン系の疾患ではないということはハッキリしたのですが、残るは良性か悪性か、手術しなければ分からないとのことだそうです。

 

 

 

罹患率が低いという事は、患者への負担が少ないという腹腔鏡手術といえども、見方を変えれば、高い技術を要する、つまり難しい手術の経験をしている先生も少ないということでもあります。

 

 

その親戚に聞いてみると、CTは腹部しか撮影していないと言い、遠隔転移があるかないかを確認する為にも、首から骨盤にかけてのCT撮影はしないのか?と質問したら、そんな提案はなかったとのことでした。

 

 

一度、先生に、私のことを、「親戚に3度の癌の罹患者がいて、6ヶ月に1度、首から骨盤までを造影CT撮影の検査を受けている人がいるのですが、首からCT撮影してもらうことはできないのか」聞いてみたらとアドバイスしました。

 

 

すると、主治医の先生は少し躊躇ったそうなのですが、そのようにオーダーしてくれたそうです。

 

 

すると、首から骨盤までをスクリーニングでCT撮影をしたら、何と、甲状腺と左乳房に小さな影、右乳房に数センチの影が映っていたそうです。

 

 

上から順番に検査、甲状腺は水疱らしいとのことで大丈夫だろうと、左の乳房の小さな影は問題無しとのことでした。

 

 

しかし、右乳房の影は、各種検査の結果、3cmくらいとその側に数mmくらいの乳がんであると診断されました。

 

 

しかも、乳がん検診の主流である検査、マンモグラフィーには映らなかったそうで、疑って見て、ひょっとしたらという画像だったそうです。

 

余程の経験者の先生でなければ、見落としても仕方がない影だったそうです。

 

 

CT画像とエコー検査、細胞診断、血液検査で乳がんと確定されたそうです。

 

 

細胞の種類はあまりタチの悪いものではないらしく、部分切除でも切除が可能かもしれないとの診断だったそうです。

 

 

乳がんは、がん細胞の種類や進行によって、大凡、4つくらいの種類に分けられるそうです。

 

親戚は、種類的には一番、タチの悪くない種類だったそうです。

 

 

 

当時は乳房再建術も前年に保険適応になって頃で、治療としては、敢えて乳房を全摘してもらい、乳房再建手術も受けたそうです。

 

 

幸い、リンパ節への転移も無かったそうですが、それでも10年以上にはなる治療と経過観察になるそうです。

 

 

そして、副腎腫瘍は経過観察をするということになったそうです。

 

 

 

当時は、17人に一人が乳がんになると言われていましたが、最近では、10人に一人とも言われています。

 

 

 

その親戚は、もし、私がアドバイスしなければ、上半身の疾患は見つからず、きっと、手遅れになっていて、今頃は亡くなっていたかもしれません。

 

 

私の仕事のクライアントさんに、医師会関係の仕事もしています。

 

 

仲の良い、ある先生にこんな話をしましたら、「運が良かったね〜」って、いきなり言われました。

 

 

何故と聞きましたところ、そう言う場合は通常、患者さんが、胸が痛いとか、違和感があるとか言わなければ、上半身のCTは取らないのがルールだそうです。

 

 

もし、ちゃんとした確信がなくて、先生の予備的措置で上半身もCT撮影した場合、何も異常が無かった場合、レントゲンなどの撮影費の保険負担の7割が病院負担になるそうです。

 

そして、勤務医でもあるその先生の責任問題になる可能性もあるからだそうです。

 

 

先生もサラリーマンですし、患者ファーストでなく、責任回避ファースト?になっていませんか?って、気になりました。

 

 

私の親戚は、たまたま、私のアドバイスで、運よくその先生が躊躇いながらもCT撮影のオーダーをして頂いたから助かったようなもので、それが無かったらどうなっていたのか、今の医療制度に対して、疑問を持ってしまった事例でもあります。

 

 

 

その時その時に巡り会うご縁によって、自分の運命が変わってしまう。

 

それは、良い方向にも悪い方向にも。

 

 

そこに、「運」と言うものも関係しているのかもしれませんね。

 

 

 

二人で楽しく、大切にしていこう。と、思っていましたが。

 

二人とも遅めの結婚でしたが、数年後に、私の大病の罹患、不妊治療、独立創業、等々、本当に色々なことがありました。

 

 

普通に子供ができて家族を持って、家を建てて、孫もできて、細々ながらも幸福な夫婦を続けて行くのだろうなと思っていました。

 

 

しかし、様々な出来事のどこかで、ボタンを掛け違っていたみたいですね。

 

 

不妊治療で最初に妊娠した時は、実感は無かったですが、心底嬉しかった記憶はあります。

 

しかし、2ヶ月で流産。

 

 

数回の真偽も合わせて妊娠はありましたが、全て2ヶ月以上育立たず、若しくは、疑わしいかな…って感じでした。

 

 

我々は子供を持つなと神様に言われているのかと悩んだ時もありました。

 

 

でも、後々に、ふと思ったことは、ひょっとしたら、私の3度に渡る癌治療が余命に関わることにならないように、その運命をその子たちが持って行ってくれたのかなぁ…とも感じました。本当に。

 

ちょっと、スピリチュアル過ぎますかね…。

 

 

今でも、当家のお墓参りに行った時には、生まれることの無かった、その子たちの供養も欠かさず、心の中で念じています。

 

 

 

 

正直、予想もしていませんでした。

 

 

掛け違ったボタンは、いつしか修復不能に。

 

 

結婚14年後に話し合いの結果、前向きな別居することになりましたが、別居開始間も無く、結局は離婚することになりました。

 

 

詳しくは話せませんが、掛け違いに気付くのが遅いと、修復は不可能になってしまうものですね。

 

お互い別々の道を歩くことを双方で決断。

 

私の本心は、不本意でしたが、結婚15年を迎えた年に、正式に協議離婚することになりました。

 

 

法的な手続きも、弁護士の手を煩わせることも無く、全て自分でやりました。

 

 

 

心の底で蟠っていたこと、その都度、話し合うべきだったかな、信頼仕切っていたこと、相手の悩みに寄り添っていなかったこと、こう言う状態になって初めて気付くのも、自分の甘えだったかもしれませんね。

 

 

わかっているつもりでも、お互い、全くわかっていなかった。

 

気付いた時には修復が不能に。

 

 

 

でも、やっぱり…、一人は寂しいものですね〜。

 

夫婦関係がギクシャクし始めた頃、仕事でも大きな災難が起こっていました。

 

詳しくは言えませんが、民事裁判の中にいました。

大変、貴重な経験もしました。

 

 

この経験でわかった事、「民事において法律に正義は無い」と言う事でした。

 

 

でも、いい勉強になりました。

 

 

 

裁判が原因ではありませんが、掛け違ったボタンの綻びが一気に広がって行ったと言った方が良いと思います。

 

 

こちらから訴追した民事裁判でしたが、このストレスは大変なものでした。

 

 

癌宣告された時も相当なストレスを感じましたが、それ以上だったかもしれません。

 

 

また、再発するのでは無いかと、真剣に思ったほどでした。

 

 

 

離婚の直前に裁判は終了しましたが、やっぱり一人は寂しいものですね。

 

 

 

私には兄妹がいます。

 

兄と妹はともに離婚を経験していますが、二人とも、どこで見つけてくるのだ?と感じながらも再婚しています。

 

 

 

二人とも若い頃に結婚して子供にも恵まれていますが、離婚もして再婚もしています。

 

 

 

私の初婚は38歳でしたが、なぜか家族には恵まれませんでした。

 

パートナーもそこそこにはいたのですが、不本意ながら長続きせず、結局、一人の期間が多かった様です。

 

 

大体、失恋後に出会っていたケースが多かった様な気がします。(笑)

 

 

立ち直ると旅立っていく。(笑)

 

そんな恋愛を繰り返すばかり。

 

不思議なご縁でした。

 

 

 

病気や怪我では、本当に運が良いが、それ以外は縁が無いと言う様な人生だった気がします。

 

 

仕事では、適度なご縁はあると思いますが、それが大きく発展していくわけではなく、常に踠いている様な気がします。

 

 

まだまだ、努力が必要な気がします。

 

 

 

ご先祖様の「業」を背負っている、だけど守られている。

 

 

こんな、所からもこの言葉の意味、意義を感じているのです。

 

 

でも今、生きている。

 

運よく生きている。

 

 

自分が元気に生きていることは、それを発信することは、きっと誰かの励みになっているのではと思っています。

 

 

仕事も生かされて自分が何をすべきなのか、社会にどう貢献していくべきなのか、日々考えさせられます。

 

 

自分の運が逃げていかない様に、謙虚に真摯に、驕らず、はしゃがず気を付けていきたいと…。

 

 

 

まとめ

 

当初、ブログで自分の大病経験を書くべきどうか迷いました。

 

最近、タレントさんや芸能人の癌罹患告白やとても短になってきた様な気がします。

 

私の身近でもよく聞くことも多くなりました。

 

 

3度の癌経験と4度の手術。

 

 

その痛みと言えば、正直、注射を打ったくらいの痛みしか無かった様な気がします。

 

 

医療の進歩は日進月歩のごとく発展しています。

 

 

見た目は健常者の様に見えますが、実際は生活で制限されることは有ります。

 

団体旅行には参加できません、まして、海外旅行なんてこの先行くことも無いと思います。

 

 

2、3時間程度の飛行機には乗れますが、トイレの事で、それ以上はリスクが多すぎます。

 

 

 

病気の治療のことでは、仕方のない事ですが、病院による治療技術、実績、症例数、経験や治療データに差があるのは事実です。

 

特定の科の医者も不足していることも事実です。

 

大学病院なんてブラック企業と言っても過言では無い現況もあります。

 

でも、志の高い先生たちに支えられていることも事実です。

 

 

でも、それでも志の格差もある様に思います。

 

 

それぞれに持って生まれた個々の運、ご縁もあるのかもしれません。

 

 

しかし、私が、私が経験したことをレポートしこういう経験をしたことを発信することは、知らないが故に恐怖心の為に、一歩が踏み出せない、押し潰されてしまいそうになる、現実を受け止める切っ掛けになるのでは無いかという思いもあります。

 

 

私も今でも年に1回の検診の時、普段の生活の中での体調不良の時、ナーバスになります。

 

 

でも、生かされている。

 

これからも、もっと生かされたい。

 

これまでの人生、まだやり切っていない、まだやり残していることがある、という気持ちには嘘はありません。

 

これからの自分が思い描いている人生に、まだ、全然、たどり着いていません。

 

 

一昔前なら、定年して年金を貰うまで、嘱託での仕事に勤しんでいた年齢ですが、まだ、何もやり切った実感がありません。

 

 

だから、もっと生かされたいのです。

 

 

自分の経験を発信すること、これも「徳を積む」ことと考えています。

 

 

少しでも、同じ経験するかもしれない人に、している人に、何か力になれる可能性があるかもしれない情報ならば、発信することは私なりの社会貢献であると考えています。

 

 

どんなことでも賛否があって当然。

 

色々な考え方があります。

 

最近のネット社会では、匿名の基、心ない誹謗、中傷をする人たちもいます。

 

でも、私は発信すべき、と思いこのブログを書きました。

 

 

 

よく、全てのご縁や、また、災難的なことも全て意味がある、意義があるとよく言われます。

 

 

乗り越えられない障害を神様は与えない、などとも言われます。

 

 

正にそう思います。

 

 

じゃあ、その自分に課せられた意義は、何なのだろう。

 

明確な答えはわかりません。

 

 

でも、小さなことでも、自分の周りの社会に対して、何かの貢献できることを探し続けることが大切なのかもしれないと実感しています。

 

 

 

もっと、生かされ続けてもらえるように。

 

 

これまでの幸運が逃げてしまわぬ様に、いかに徳を積む生き方をするか、いつも、真摯に謙虚に、はしゃがぬ様に、驕らぬ様に、その気持ちを持ち続けることをテーマに、意識していきたいと思っています。

 

 

 

 

直接的なメッセージとしては、それなりの年齢の方は、是非、がん検診を受けてください。

 

 

可能な限り、自分に有用だと思える保険に入ってください。

 

 

最近、大手生命保険会社のショートストーリーCMで、女子高生の娘の成長を見守る父親が病気で亡くなり、保険のお陰でそのお娘が大学受験に合格するCMをよく目にします。

 

 

このCMを見ていると、涙腺がとてつもなく緩んでしまいます。

 

 

家族のため、自分のために、しっかりとした意味のある保険に入いることをお勧めします。

 

 

 

このご縁を機会に是非、色々なことを見直してみては、如何でしょうか。

 

 

 

 

50の手習いではありませんが、新規事業を始めるために、昨今、かなりの勉強をする機会を得ました。

 

この事業を通じて、仕事の面でも社会に貢献できたら…。

 

そんな思いも込めて邁進中です。

 

 

 

このご縁に触れて頂いた皆様にも、幸運が訪れます様に、心から祈念いたします。

 

 

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

2020.06

 

 

 

この記事を書いた人

古野 徹
株式会社リップル
代表取締役
マーケティング・コンサルタント

広告関連企業8社に従事して36年超。
ありとあらゆる業務を経験してきたノウハウを活かし、総合広告代理店、㈱リップルを設立する。

創業15周年の通過点に向けて、新規事業として、中小企業を対象とした、「マーケティングに関するコンサルティング事業」サービスの提供を開業。
「心を大切にコンサルティングします。」を新たな基本理念に加え、
どうやって、集客していくのか、
どうやって、売り上げを伸ばしていくのか、
どうやって、新たなお客さんやサプライヤーと繋がっていくのか、
どうやって、人財を確保していくのか、
どうやって、災害や緊急事態に対応していくのか、等々、
益々、社会での存在意義を示していくことが重要な課題になってきている中小企業に対して、わかっているようで、わかっていない「マーケティング」、今更、聞くに聞けない「マーケティング」の事など、総合的なマーケティング活動の施策支援のサービスが提供できるように、絶えず精進を続けている。

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